元プロピアニストの調律師・鳴瀬が、調律先で様々な人々と交流する、全7話からなる物語だ。鳴瀬は調律師・鷹栖の娘の絵梨子と結婚していたが、10年前に交通事故で亡くす。鳴瀬はプロピアニスト、絵梨子は専属の調律師だった。ともに共感覚の持ち主で、それぞれ音を色として(色聴)、音を香りとして感じる能力を持っていたが、絵梨子の死を境に、鳴瀬は色聴を失い、絵梨子の能力を受け継ぐ。同時にピアニストをやめ、調律師へと転身した。
「妻の実家に置いてあるアップライトのピアノの調律を見ているときに思いついたんです。前から職人の話を書きたかったんですが、ものづくりの世界は動きがあまりない(笑)。でも、調律師はピアノのあるところへ行くでしょう。そこに人との出会いが生まれる」
それぞれの話のテイストを決める曲選びは楽しかった。クラシックだけでなくジャズも入っているのは、自身バンドを組み、音楽に精通する熊谷さんらしいこだわりだ。物語のトーンはハードボイルド調である。
「元々僕は、海外ミステリやSF好き。しかし、ハードボイルド的な文体は、過不足の匙加減が難しいんです。デビュー後10余年が経って、今なら書けるかも、と思って挑戦しました」
第2話を書いた3ヵ月後、東日本大震災が起きた。仙台在住の熊谷さんはその後、エッセイ「日常を取り戻すこと」を「オール讀物」に寄稿、未曾有の大災害を前に小説に意味などあるのか、と苦悩を問いかけた。この号には本来、第3話が掲載される予定だった。
「これまでに31冊の本を書きましたが、いまある雑誌連載も含めて、〆切に書けなくなった唯一の作品です」
自ずと、物語の方向性は変わった。雑誌連載時には絵梨子の死因は、加害者のいる交通事故だったが、単行本では自損事故に変更された。
「震災後は、安易に人を殺す話を書きたくないと思ったし、“恨み”を物語の駆動力にしたくありませんでした」
震災前に書いた第1、2話、震災後それを引き継ぐように書いた第3~5話、そして出張先の仙台で鳴瀬自身が被災する第6話、ラストの第7話と、構成としては、まるで4楽章からなる音楽のようでもある。
「被災地に暮らす人々の話を直接描くのはまだ早い。けれど少し時間が経って、東京に生活基盤のある人が被災する話なら書けると思った。僕の作品で、初めて東日本大震災が具体的に出てきたという点で、大きな意味を持つ作品だと思っています」
ご本人が「書くのはこれが最初で最後」と言う、本作への思いを込めた「あとがき」も必読だ。