山田風太郎に『人間臨終図巻』という奇書がある。一葉、啄木から、大往生した武者小路実篤まで、古今東西千人近くの死にざまを死亡年齢順に記した大著だ。〈臨終の人間「ああ、神も仏も無いのか?」/神仏「無い」〉など随所につけられたエピグラムからは、作家山田風太郎の透徹した死生観がユーモラスに伝わり、とても面白い。
〈死をはじめて想う。それを青春という〉。夭逝した北村透谷らの最期は哀切であり、死の表情はそれぞれに個性的だ。それが長寿になるほど死の相貌は似かよってくる。功成り名を遂げた人も、いつしか肉体は病み、精神は衰える。〈……意味があって、長生きするのでない〉、〈人間には早過ぎる死か、遅過ぎる死しかない〉。これもまた人生だろうか。
では、死にゆく人が残した遺書を時代順に並べたら何が見えてくるのか。太平洋戦争末期、硫黄島の戦闘を指揮した栗林忠道中将の辞世〈散るぞ悲しき〉が、〈散るぞ口惜し〉と勇ましく改変された事実に着目した大宅壮一ノンフィクション賞作品『散るぞ悲しき』から、戦争という名の青春を送った五人の男の証言を記録した『昭和二十年夏、僕は兵士だった』まで、一点突破から全面展開を図るノンフィクション作家の梯(かけはし)さんは、本書『昭和の遺書』では、遺書の一点から突破、展開を図った。
「将来に対する唯ぼんやりした不安」という遺書で知られる芥川龍之介から昭和天皇まで、その遺された五十五の言葉を時系列に並べ、読み解いた本書からは、「大義」が猛威を振るい、いつしか「義」が風化していった昭和という時代が鮮明に浮かび上がってくる。
あらゆる階層の人々が死を間近にする生活を強いられた戦前・戦中は、皇国日本の大義の時代だった。本書の前半には、前線に散った特攻兵や従軍看護婦らの遺書が並んでいる。だが、大義に殉じたとはいえ、大義を信じた人たちばかりではなかった。戦没学徒の一人は殉死の直前、〈我らが祖国 まさに崩壊せんとす 生をこの国に享けしもの なんぞ 生命を惜しまん 愚劣なりし日本よ 優柔不断なる日本よ 汝 いかに愚なりとも 我ら この国の人たる以上 その防衛に 奮起せざるをえず〉という悲痛な言葉を遺している。
学徒の予言通り、祖国は敗戦で崩壊した。あの「大義」はどこに行ったのか? 梯さんは、戦争で若い生命を散らした世代の生き残りの生と死を追いかけ、「大義の末」を追いかける。紹介されるのは、ダグラス・グラマン事件に関連して東京地検特捜部の事情聴取を受け、昭和五十四年二月一日、飛び降り自殺した島田三敬・日商岩井常務の遺書である。二十三歳の時、陸軍の技術大尉として終戦を迎えた島田は、戦後、多くの同世代の生き残りと共に日本経済復興の道を歩んだ。その遺書にはこうある。
〈日商岩井の皆さん男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠のために私達は奉仕すべきです。(中略)今日の疑惑、会社イメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。〉
ここには経済成長という「大義」のために殉じた企業戦士の姿がある。政界工作のため複数の政治家に巨額の金をばらまいたとされる「KDD事件」にからんで背任などの嫌疑をかけられ、昭和五十五年に自殺したKDD参与の遺書も紹介されている。〈わたしは板野社長、佐藤室長の犠牲になって、死んでいきます〉。これもまた壮烈な殉死である。遺書を書いた参与は、やはり戦時中、海軍通信兵として召集された人だったという。
「大義の末」も、また「大義」である。しかし、梯さんの追いかけは、まだ終わらない。なぜなら、〈島田が殉じた日商岩井は、のちにバブル崩壊をへて経営不振におちいり、その後ニチメンと合併、日商岩井の名は消えた。平成のいま、会社を「永遠」と思う人は、どれだけいるだろうか〉という時代に変わりつつあるからだ。
大義を信じることの空しさ、怖さを語った作家に、敗戦の年、十七歳で海軍特別幹部練習生に志願した城山三郎さんがいる。確かに、大義という大文字の言葉は厄介である。自分が信じるだけならまだしも、人から強制されるのは御免だ。だが、「大義」には、国家・君主などへの忠誠という意味だけではなく、人間として踏み外してはならない道という意味もある。大義なき時代はどこに行くのか。本書は、最終章「大いなる終焉へ」で、戦争を知らない世代の、いじめ自殺の遺書を二通載せている。〈このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ〉。〈私は、この世が大きらいだったよ〉。いずれも昭和六十年代に自殺した中学生の悲痛な叫びだ。梯さんは〈戦中派の男たちは、戦後、戦場を職場にかえて闘ったが、この世代の子供たちの戦場は、教室の中にあったのである〉と記している。この戦場には、「小義」すらない。〈ぼんやりした不安〉は、はっきりとした不安へと変わったのだ。