園田天光光は大正八年(一九一九年)東京生まれ。父は実業家松谷正一。早稲田大学では弁論部に所属した。終戦直後の昭和二十年(一九四五年)秋、上野で餓死者が多数出ているとラジオで聴いて出かけ、その惨状をみて大変なショックを受けたのが政治活動の原点だった。
帰り道、新宿で父から見てきたことを街頭で話すようにいわれ、「せっかく生き残ったからには餓死してはならない。生き延びて、この焼け野原に緑を再び生やさなくては」と演説。人垣ができ、三百八十名もの署名まで集まった。「餓死防衛同盟」の旗を掲げて幣原喜重郎首相の下へ陳情。十一月から米の配給が増え、生鮮食料の配給も決定した。
昭和二十一年四月の戦後第一回総選挙で、憲政史上初めて、三十九名の女性代議士が誕生した。天光光も二十八歳という若さで当選。肩書きは「餓死防衛同盟」の中央委員長だった。社会党に入党し、第二回総選挙では中選挙区制の旧東京七区でトップ当選をはたすが、芦田内閣の予算案に反対して党から除名される。その後、労農党を結成し、三選された。
昭和二十四年、民主党の園田直代議士と恋愛関係に落ち、「白亜の恋」といわれ世間の注目を浴びた。
「園田君にはすでに妻子がいたし、天光光さんは労農党の左派で政治的立場も違っていたからたいへんでした。結局、園田君は妻子と別れ、天光光さんの方も家出するような形でいっしょになった」(『天地有情』中曽根康弘著)
平成十二年(二〇〇〇年)、橋本聖子参議院議員の妊娠を機に国会議員の産休制度創設が議論された。このとき、現職議員としてはじめて出産した経験から懇談会に出席。制度創設賛成の立場をとり、国会規則の改正に貢献した。
平成二十七年一月、逝去。写真は、平成七年撮影。
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