読売新聞社長および会長を長く務め、「販売の神様」といわれた務台光雄は、明治二十九年(一八九六年)、長野県生まれ。少年時代は白瀬中尉の南極探検に冒険心をたぎらせて、家出騒ぎを起こしたことがあるという。
早稲田大学専門部政治経済科卒業後、繊維会社を経て、大正十二年(一九二三年)、報知新聞社に入社する。しかし、関東大震災が彼の人生の大きな転換点となる。大阪から朝日、毎日が東京進出を果たし、報知をはじめ、在京の各新聞は部数を大幅に減らす。意気消沈する務台は、昭和四年(一九二九年)、読売新聞の創設者・正力松太郎のすすめで読売に移り、販売局で働く。
当時、東京朝日新聞(現朝日新聞)、東京日日新聞(現毎日新聞)の後塵を拝していた読売は、飛躍的に部数を伸ばすようになる。昭和十九年、務台は取締役業務局長に就任する。
戦後、大阪にも読売新聞の発行本社をおきたいという正力の意向を受けて奔走。昭和二十七年、念願の大阪進出を果たし、務台は初代大阪読売新聞社長に就任する。昭和三十七年には、正力により、九州進出を命じられ、紆余曲折の末、巨人軍の運営会社、読売興業により、読売新聞西部本社が設立された。
昭和四十四年、正力松太郎が死去。後継者は、松太郎の長男亨、松太郎の女婿・小林与三次、そして務台の三人と目されたが、務台が、翌年、読売新聞社長に就任する。
昭和四十九年、中部読売新聞社を設立、務台の長年の夢だった名古屋進出を果たす。
また、プロ野球の巨人の実質的オーナーとして、V9達成後の球団に君臨した。昭和五十五年のシーズン終了後には、成績不振を理由に長島茂雄監督を解任。このとき、巨人ファンから激しく批判を浴び、読売新聞は販売部数を大きく減らした。昭和五十六年、小林に社長の座を譲り、代表権のある会長に就任。終生信念の人で、これと決めたら、一直線にすすむ人生をまっとうした。
写真は昭和五十七年撮影。平成三年(一九九一年)没。
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