志賀直哉の最後の弟子といわれ、戦記文学などで多大な業績を残した阿川弘之は、大正九年(一九二〇年)、広島市に生まれる。
広島高等師範学校附属中学、旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文科を卒業。昭和十七年(一九四二年)、予備学生として、海軍に入る。終戦を中国で迎え、故郷の広島に復員する。小説家になることを志し、志賀直哉に師事するときに、紹介状を書いたのは、東大の恩師、谷川徹三だった。
昭和二十八年、『春の城』で読売文学賞受賞。昭和三十一年『雲の墓標』。代表作に帝国海軍の提督三人を取り上げた三部作『山本五十六』(昭和四十一年、新潮社文学賞受賞)『米内光政』『井上成美』(昭和六十二年、日本文学大賞受賞)がある。一方で、「第三の新人」といわれた遠藤周作や吉行淳之介らとの交友は深かった。彼らとの日常を綴ったエッセイには、ユーモアあふれるものが多い。
恩師を描いた『志賀直哉』(平成六年=一九九四年)で野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞。平成十九年、菊池寛賞受賞。鉄道への造詣も深く、『ヨーロッパ特急』『南蛮阿呆列車』など乗物や旅行に関する著作も数多くてがけた。平成十一年、文化勲章を受章する。
『文藝春秋』の巻頭随筆「葭(よし)の髄(ずい)から」を平成九年から平成二十二年まで執筆したが、自らの老いを切実に感じ、筆を置いた。
「我が師志賀直哉は、晩年、
『不老長生といふ、不老で長く生きられるなら話は又別だが、老いだけ残って、ただ長生きといふのはお断りだ』
よくさう言つてをられた。さう言ひながら意外に元気で、夫人と二人地下鉄で浅草へ遊びに出かけることなど屡々あつたけれど、それも年を追うて変つて来、亡くなる三年くらゐ前には、
『もう生きてるのがいやだ』
と、居間のカーテンの紐を首に巻きつける恰好をして見せたりされるやうになる。(中略)
当時私は満四十七歳、『やつて御覧になりますか』とも言へないから、生返事をしてゐると、
『とにかく、老年といふのは、実にみじめないやなもんだ』
続けて、
『今に君なんかも分る』
と、先生は苛立たしげな大声を出した」(「文藝春秋」平成二十二年八月号「老残の身」より)
この次の号で、「葭の髄から」は最後となった。平成二十七年八月三日没。写真は平成五年撮影。
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