書評

自伝というものは

文: 安野 光雅 (画家)

『絵のある自伝』 (安野光雅 画・文)

 ある日、「僕を覚えていますか、わたしは、学生の頃あなたの書店に迷惑をおかけしたものです。あなたの志には、言い尽くせぬほど感謝しています。人前ではイワサキと呼び捨てにしましたが、どれほどあなたの心情に感謝していたかしれません。今は法律家として研修するため、看守の見習いをやっています、わたしはあなたのお役に立つことでご恩に報いたいとおもいます。何でも言いつけて下さい」といった。

 岩崎さんはその奇遇をよろこび、「世間のニュースを聞かせてください」といったらしい。監禁されていながら、岩崎さんは世の中のニュースを知ることができたという。

 このような話は、新派の芝居にだってないほどだ。すっかり感激したわたしは徹太さんに、「自伝か何か書いて残しておいてくれませんか」といった。すると、

「アンノさんねえ、自伝とかナントカ、ああいうものはねえ、書くもんじゃあありませんよ」

 といってわらわれた。その言葉は私の心に残った。そしてやはり書かないほうがいいらしいとおもった。

 岩崎さんは、「墓も建てたくはないが、まあ道ばたの石ころに「『同行二人ここに眠る』と書いたものでもおけばいい。安野さん、その字をかいてくれませんか」などといわれた。『同行二人』はともかく、ご夫妻は私と同じ無宗教なのだなとおもった。徹太さんが亡くなったあと、わたしは1晩かかって「岩崎の墓」という字を書いた、墓は所沢聖地霊園にある。

「僕らの墓の近くに墓地を買わないか」といわれ、その近くに墓地を買った。「野の墓」と書き、今はわたしの母が入っている。

 しらぬまに年をとった。お世話になった方々の、顔が去来する。1人1人御礼をいって歩きたい気がする。それが禁断の『絵のある自伝』となった。

 岩崎さんも治子さんも、入院されたときお見舞いにうかがえなかった。行けば良かったのにとおもう。

 でも、寝ておられるところへ行くのも悪い気がして、失礼しているうちに、おもいのほか時間が過ぎ、別れのときがきてしまった。

絵のある自伝
安野光雅・著

定価:1628円(税込) 発売日:2011年11月19日

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