ご先祖様への敬意、四季の豊かさ、失われた故郷の原風景
安野 『一〇〇年前の女の子』を読むと、百年前のいろんなことが昨日のことのように感じられます。わたしは、百年前に生まれたわけではありませんが、昔は文明の変化がゆっくりでしたから思いあたる所が多いのです。今は携帯電話のような技術革新のたびに世の中が急変しますから……。わたしは今年九十歳になりました。この本に書かれたものごとは、わたしの生まれた津和野と共通するところがたくさんあります。あの頃は、時代の変化がゆっくりなんですね。お盆や正月、井戸の水汲み、田植えや稲刈り。一つひとつが懐かしい話ばかりです。
二〇一〇年に講談社から刊行後、さまざまな新聞、雑誌に取り上げられ、多くの共感を呼んだ『一〇〇年前の女の子』が加筆、文庫化された(小社刊)。物語の主人公は、船曳氏の母、寺崎テイ。明治四十二(一九〇九)年、上州カラッ風の吹く館林と足利の間の高松村に生まれた。婚家に戻らなかった実母と生後一か月で引き離されたテイは祖母に育てられるも、父が後添えを迎えたため、里子や養女に出される。生涯実母に会うことのなかったテイは、明治末期から平成までの百年間を「母恋い」とふるさとへの思いで生き抜いた。
船曳 米寿を過ぎた頃、突然母が絞り出すように語り始めたんです。「私にはおっ母さんがいなかった……」。母は四姉妹の長女ですが、それまで実の母親が違うことを決して話しませんでした。
安野 あなたもお母さんが異母姉妹だと知らなかったの?
船曳 はい、はっきりとは。母から、養女に出されたときの淋しさと哀しさ、あふれ出る母恋いの思いを聞くうち、辛くて汗が吹き出しました。
それと同時に、母が語る高松村の四季おりおりの暮らしぶりに心が惹きつけられました。正月にはお正月様をお迎えし、お盆にはご先祖様が戻られる。母の語ることに耳を傾けているうち、これは本の形に残したいと思いました。母が語りだした日から十年たっていました。
高松村にいまも残る原風景
安野 単行本が出たあと、お母さまが生まれ育った栃木県の高松村を見に行きましたよ。
船曳 まだ九月で残暑が厳しい時に、「明日高松村に行こうと思う」とお電話をいただいた時は、心配のあまり卒倒しそうになりました。高松村は栃木ですが、群馬との県境にある村で、初めて行くにはちょっと分かりづらいんです。
安野 「筑波村大字高松」と書いてあったので、筑波山を目指して行けばなんとかなるだろうと……。あのとき電話したら、あなたが必死になって「違います、筑波山は茨城県です」と止めてくれた。ガマの油を連想し、筑波山の麓あたりと勘違いしたんです(笑)。でも行ってみてよかった。いまも寺崎家のあたりは、いい意味で日本の原風景でした。
船曳 高松の寺崎家は、村の一番北の広いところにあったので、村の人から「北(きた)ん家(ち)」と呼ばれていました。屋敷周りは一町歩、三千坪もある茅葺屋根の大きな家でした。
村道から母屋まで街道(かいど)と呼ばれる私道が七十メートルもあり、その両側には、茶畑、桑畑、野菜畑があり、裏の竹林の中には一年分の薪の材料になるクヌギやコナラが数十本ありました。その先には川があり、そこで野菜を洗ったり、シジミやウナギ、フナを捕っていたんです。
安野 昔の田舎は、自給自足の生活でしたね。味噌醤油から、中には禁制のドブロクを作る家までありました。味噌は、大豆のすりつぶしがいいかげんだから、形が残っていたりして。でもおいしい。
船曳 手前味噌ですね(笑)。
安野 あなたは「つましいごちそう」と書いているけれど、昔の農家の料理は手が込んでいて、現代よりも豊かに感じます。特に正月のおせち料理などは手間をかけましたね。
船曳 ええ。テイの家では、鮒の甘露煮が正月料理のお殿様でした。ダテマキやカマボコは家来です。
まず、夏に父親が裏の川で鮒を捕ってくると、手作りの竹串に鮒を次々と刺していく。銅製の大火鉢の燠火にぐるりと串刺しの鮒を並べ、じっくり焼き上げるのです。焼いた鮒はさらに、藁づとに刺して乾燥させて保存しておきます。
年越しが近づくと、その先は祖母のヤスおばあさんの腕の見せどころ。鍋の底にゴボウを敷き詰め、焼いておいた鮒、水、酒、醤油を入れてかまどで、骨が柔らかくなるまで三日三晩トロトロと弱火で煮こむ。時々火からおろしては鮒に味をしみこませてまた火にかける。最後にみりんを一垂らしして照りを出して出来上がりです。
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