──ライトノベル作家として活躍されていた橋本さんが一般文芸作品を書き始められてから三年目になります。新刊『橋をめぐる』は短篇集ですね。
橋本 短篇小説が大好きなんです。昔の小説、主に一九六〇年代から七〇年代に書かれた短篇をむさぼるように読んでいた時期があるので。宮本輝さんや半村良さんなど、小説としての面白さが詰まっていました。ここのところエンターテインメントの世界では、長いものが好まれますよね。短篇小説の面白さに挑む作家は減っているように思ったんです。ならば、僕がやってみようと。ちょうど「別册文藝春秋」から連載のお話をいただいた頃でした。五話か六話の連作短篇を、という依頼だったので、登場する人物の性別、年齢、職業などの設定を毎回変えて、その都度(つど)文体も違う作品に挑戦してみようと思ったわけです。書き手としての挑戦でした。
──東京の下町、深川を舞台に選ばれたのは何故ですか。
橋本 六話に共通するテーマを何にするか、しばらく悩んでいたんです。試しに、担当編集者が生まれ育った深川に取材に行ったら、僕の知っている東京とまるで違っていたんです。伊勢の出身なのですが、十代の終わりに上京して以来、ずっと東京の西側で暮らしていましたから。
異なる空気に魅せられたことと、橋を渡るごとに景色が変わるのが連作短篇向きだな、と思いました。清洲橋をはじめ、大きな橋、狭い橋など色々な橋を渡っているうちに、これらの橋を一つのテーマにすれば、ばらばらな話でも深い部分でつながっていくんじゃないかと気付いたんです。
橋というのは象徴的なんですよ。脇道がない。渡り始めたら、渡り切るか戻るかしかない。こちら岸なのか向こう岸なのかはっきり分かれているわけです。話の多くは橋を渡るシーンから始まっていますが、六話は、それぞれの登場人物、つまりは六人が橋を渡り切るか戻るのか、途中で立ち止まるかの物語なんです。橋という道具を使うことによって、人生とか心とか考え方が変化していく瞬間を書きたかった。
女性作家に間違えられるのは光栄です
──「清洲橋」では、ぎくしゃくした親子関係が描かれています。橋本さんご自身も、実家に複雑な思いをお持ちであるとほうぼうでおっしゃっています。
橋本 自分で言うのもなんですが、小さい町で、名家といわれる家に育ったんです。例えば子供の頃、僕が悪戯をすると、お前はどこの家の者だ、と聞かれますよね。田舎ですから。で、苗字を言うと許されてしまう。同じことをした友人は叱られるんです。それがものすごく嫌でした。また、跡取りの立場にあったため、親族一同から大事にされることが重荷でした。ことごとく反発して、親戚との関係が悪くなった時期もあります。可愛がってもらったのに、ついに僕は祖父の葬式には行きませんでしたし。今振り返ってみると、あそこまで思い詰める必要はなかったのかもしれない。でも、若い頃は、そうでもしないと一族のくびきから解き放ってもらえないと本気で感じていたんですね。
──ただ、周囲の方からは愛されていたのですね。その育ち方が作品の中に嫌味なくあらわれていると思います。基本的には人に優しいというか。
橋本 人を信頼しているというのはあります。僕は一度、故郷と家族を捨てたようなものですから、その代償として信頼できる人が欲しかった。家族の代わりになるものが必要だったんでしょう。
大学入学のために、東京に出てくる際も一悶着ありました。家を出るためだけに東京の大学に入学したんです。それゆえ、入学したとたん退学届けを出しました(笑)。一度も授業に出ず、教科書も買わず、指導教官の説得にも耳を貸さずに。下宿もすぐに引き払って、友達のところに転がり込んでしまいました。絶対に探し出されないように。その時に、すごく自由になった感じがしたんですよ。初めて一人になれた。この町には、僕を知っている奴は誰もいないんだ。それが嬉しかったんです。
ところが、一人になりたいという目的を果たした途端、することがなくなってしまったんです。以降十年ぐらい、二十代の大半は流れるように生きることになってしまいました。
──その頃は、作家になりたいという気持ちはまだなかったのですか。
橋本 全くありませんでした。本を読むのは好きでしたけれど。暇になったので、駅前の古本屋のワゴンセールで一冊五十円の文庫本を買ってきては読んでいました。文庫一冊で一日もちますからね。友達の部屋に居候しながら、アルバイトもしつつ、宮本輝さん面白いなあ、これで全作品制覇だ、という風に読んでいました。そうやっているうちに小説が好きになり、いつの間にか書き始めていたんです。
この時期、僕を住まわせてくれた友人をはじめ、困った時には必ず助けてくれる人が現れました。手元に七十円しかなくて、さあ、どうしようというときに、「おまえ、十日ほど働けないか」と突然連絡があったり。僕はもうおしまいかな、という瀬戸際に無償で助けられる体験が続いて、それが、人を信頼できるようになった一つの原因かもしれません。人間ってこんなに優しいんだ、信頼したときには信頼してもらえるんだ――そういうことを二十代で学んだ気がします。お金はないし、本当にぎすぎすしていた辛い日々でしたが、周りから色々なことを分け与えてもらった十年間でしたね。
──「亥之堀橋」では、初老にさしかかったバーテンダーの心情が実にリアルに表現されています。
橋本 実は僕も、銀座で働いた経験があります。バーテンではなく、ただのボーイでしたが。バブル崩壊直前で、銀座には本当の賑わいと華やぎがありました。タクシーが三列駐車だった頃ですね。当時の大人は格好よかったんです。お客さんもそうですが、店の方も、特にベテランの人達が粋でした。客の中には、羽目をはずした遊び方をする連中もいましたが、バブルの前から銀座に来ている人達は、惚れ惚れするほど格好よかったんです。遊び方を知っていました。自分も楽しんで、女の子達も楽しませて帰っていくんです。バーテンの腕もよかった。ステアの仕方だけで味が違ってくるんですよ。今は消えつつある文化ですね。僕の心の中の、格好よかった大人達の世界を描きたくてこの短篇に取り組んだんです。粋な会話なども含めて郷愁をこめました。繰り返しになりますが、昔はこの種の、大人向けの短くて洒落た小説が沢山あったんですよ。僕はさまざまなテーマや、まったく違う文体を、ちゃんと使いこなせるようになりたいんです。その上で、自らの道を突き詰めたい。
──打って変わって、「大富橋」では少年が主人公ですが、死が隠れたテーマであると感じました。
橋本 二十代の頃、夜の世界に生きる人達に囲まれていました。あの世界では、「死」が身近なんです。また、たまたまでしょうが、僕は親族を何人も失っています。友達を亡くすということ、家族を亡くすということは僕にとって特別なことではないんです。死は日常の出来事です。当たり前のように訪れてくることなんです。
──お葬式のシーンが印象的でした。
橋本 お葬式に宗教色が絡んでくるのは好きではないのですが、故人を悼んで送るという儀式そのものは嫌ではないんです。お坊さんの説法なんかは嘘くさくて聞いていられないので、葬式に行くと、死に顔を見て額に手を触れて帰ってくるんです。
これは強調したいのですが、死は特別なことではなく日常そのものです。目を背けてはいけない。人が死んで新たに生まれて、そうやって社会が回っていくのだと思います。死んだからといって完全に消えてしまうわけではなく、遺された人の心の中では生き続けるのですから。
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