──続く「八幡橋」や、またこの作品集以外でも、橋本さんには女性の視点から書かれた作品が多数ありますね。女性の心理、感情がきめ細かく書き込まれています。読者の中には橋本さんを女性と思っている方もいるようです。
橋本 書きやすいのは女性視点ですね。努力して、女性視点の文体を身につけたわけではないですし、女性の心理を知るために身近な女性に細かく話を聞いたりもしません。とても自然に書いています。たまたまできただけですね。ただ、そう言っていただけるのは非常に嬉しいです。「紡」という中性的なペンネームにしたのは性別で作品を読まれたくないという気持ちが強かったからです。少し前までは髪が長かったので、帽子を被って髪を下ろして、男か女かわからないような著者近影を出していました。本屋さんに行って、自分の本が女性作家の棚にあると、しめしめと思ったりして(笑)。
──舞台の深川ですが、深川在住の読者が、書き手の橋本さんを深川の住人であると思い込んでいました。
橋本 深川という町自体がひとつのテーマでもあるので、その風景は大切にしたいと思いました。ですから、連作を一話書くごとに泊り込みで取材しました。舞台となる場所の夜中の風景を確認したり。石のベンチがあるんだなあ、とか、ヨットが係留してあって、岸壁に当たってカツンカツンと音がする、とか、空気感を自分のものにする必要があります。ディテールがとても大切なんです。そこに心が宿る。取材はかなり綿密にやりました。
──「江戸の下町、人情の町」というステレオタイプの深川ではなく、現代の深川が描かれていますね。
橋本 昔と今、古さと新しさが混じりあっている町じゃないですか。その混沌が面白いんです。
花火大会では、ステテコをはいた地元のおじいちゃんがいる側(そば)を、ブランドものの浴衣を着た子供達が、今風の若い両親に手を引かれて歩いていたりします。変わり続けている町なんです。かといって昔のものが消え去っていくわけではなく、ちゃんと残っている。世田谷が舞台では書けないですね。『橋をめぐる』を書けるのは深川だけです。取材をしていて、家賃も城西に較べて一~二割安いですし、金欠の頃、なんでこっちに住まなかったんだろう、と思いました(笑)。
──ところで、結婚を控えたカップルが新居探しをする「まつぼっくり橋」をはじめとして、建築やインテリアの描写も細かいですね。
橋本 好きなんです。自宅は、古い家を買って改装しました。原型をとどめているのは外観だけですね。壁は全部塗り直しましたし、天井は抜きましたし、床も無垢材に張り替えました。全部自分でやりましたよ。古くていい家を買って、ちょこちょこと直しながら住んでいくのが楽しいんです。この「まつぼっくり橋」に出てくるディベロッパーの男と不動産会社の男との会話には、僕の趣味がかなり入っていますね。
ライトノベルで初版十万部を達成して
──デビューはライトノベルの受賞作です。代表作の『半分の月がのぼる空』シリーズは累計百万部を突破し、アニメ化もされています。しかし橋本さんはよく「事件が起こらなくても読ませる小説、風景描写だけで読者の琴線に触れる文章」を心掛けている、とインタビューなどで話されています。経歴と、その純文学的とも言える志向のギャップが意外にも感じられるのですが。
橋本 実は以前、「文學界」を定期購読もしていたんですけど(笑)。絲山秋子さんがデビューされ、モブ・ノリオさんが「介護入門」を書かれて、宮下奈都さんが新人賞の佳作を取られた頃です。
──橋本さんはすでにデビューされ、活躍されていましたね。
橋本 まあ、しょっぱいもの喰ったら甘いものを喰いたくなる、といったところです。もともと、普通のなんでもない小説が好きなんですよ。敬愛する作家、宮本輝さんの小説にしても大きな出来事は何も起きないわけです。人と人との関係を描いているだけなんです。その関係の中に、ちょっとした一言で心動かされるシーンがあって、それは例えば殺人や爆破事件を扱うのに負けず劣らず、ちゃんとしたエンターテインメント小説になるはずなんです。その想いは小説を書き始めた時から変わりません。
ライトノベルの賞をいただいて世に出ることが出来ましたが、実は、ライトノベルの世界を知らなかったんです。家内と一緒に暮らそうとしていた時期で、借りたいマンションの敷金礼金が五十万円ほどでした。そこでたまたま応募したのがライトノベルの賞だったんです。賞をいただいてから、これは一体何の賞なのだろうと調べたくらいです。本屋でそのジャンルの棚の前に立った瞬間、さっと血の気が引きました。どうしよう。今まで一度も読んだことがない。だけど、賞を獲ったからには書かなければならない。日々の生活費を稼がなければならないですから。
──因(ちな)みに賞金はいくらだったんですか。
橋本 ぴったり五十万円でした(笑)。お陰で敷金が払えました。ですが、そのデビュー作が大コケして、二年くらい仕事がこなかったんですよ。僕のそもそもの性格として、どんな山であれ、山があったら登りたい方なんです。で、その時、僕は未踏の山に登りかけ、崖から転がり落ちて血を流している状態。自分が失敗したということが、どうしても許せなくて、何としてもこの山に登らなければならないと思ったんです。文庫の書き下ろしで初版十万部をクリアするまではこの分野で踏んばってみせる、それが賞をいただいた者の責務でもある、と腹を据えました。
抵抗があったのは、ライトノベルのジャンルはあまりにも非現実的なものに話がふられていたり、いわゆる萌え、カバーで少女のパンツが見えていたり(笑)。自分はそういう要素のない普通の小説で初版十万部を超えてやると決めました。書き続けて、当初の目標は三、四年前に達成できました。とても素晴らしい体験でした。作家として育ててもらった。心から感謝しています。これで業界への恩返しはできた。山に登れた。では次に行くべきは、僕のことを誰も知らない世界だ。居心地のいい世界に安住するにはまだ若い。だから今、僕はいわゆる一般文芸という山に登っている最中です。躓(つまず)いたり膝を擦りむいたり、時には道端に座り込んだりしながら。
学校図書館とコラボする
──学校図書館で読書啓蒙活動をしておられるそうですが。
橋本 学校には図書館便りというのがありますよね。そこに僕の小説を連載してもらっているんです。もちろん原稿料はなし。データの形で作品を渡しておいて、司書さんではなく、子供達が好きに編集して載せるんです。編集して人に届ける喜びを知ってもらいたいのです。いま全国で三百校くらいが参加しています。僕はライトノベルの作家だったので若い読者が多いですから、その人達にライトノベル以外の小説の楽しさも覚えて欲しいんです。ライトノベルと文芸の間の橋渡し役になりたいという気持ちがあります。
この活動を始めようと思ったきっかけは、駅前書店がどんどん潰れている現状です。僕の故郷では、かつては駅前に書店が三軒あったのですが、いまは一軒だけです。僕らの時代は生徒が電車を待つ間、本屋で時間をつぶして、それで本好きになっていくという文化があったんですが、それが廃(すた)れてしまう。本好きの若い人がいなくなってしまう。
その時に気付いたんです。学校図書館があるじゃないか。読書の入り口を考えたときに、もう学校図書館しかないんじゃないか。であるならばそこに協力しよう、と。司書さん達と一緒に、本を読む若者達を掘り起こしていきたい。必ずしも僕の本ばかり読んでもらわなくても構わない。面白い本は読み切れないほどあるのだから、僕の小説をきっかけに次へ行ってください、と。お礼の意味もあります。小説を書いて食べていけるって奇跡的じゃないですか。その恩返しをしたいという想いがあります。
──橋本さんは、文章だけでなく、字面の美しさ、ページの余白にまで気を遣われます。これも読者への気配りですよね。
橋本 映画や、テレビ、あるいはネットと戦っていかなければいけないわけです。もしも僕が純文学の作家であれば単純に自分の世界を突き詰めていけばいいのかもしれませんが、僕はエンターテインメントの作家ですから、できるだけ多くの人に読まれたい。本離れが取り沙汰されるようになって久しいですが、その現状に対抗したい。ライトノベルは今、ものすごく売れている。そこから出てきただけに、ライトノベルに負けたくないという気持ちもあります。しっかり戦うことが恩返しというか。
文芸にはある一定数のコアな読者がいると思います。月に十冊読むようなつわもの達。それとは別に月に一、二冊読む人達がいる。仕事に疲れて、何か気晴らしに読みたい、と本屋に行った時に、字がびっしり詰まった本では臆してしまうかもしれないですから。手に取った本を一週間くらいかけて読んで、その後は自分の部屋のカラーボックスにたてかけておく、僕はそんな人達に読んでもらいたいんです。読書という行為を特殊なものにしたくない。一部の人にカリスマのように崇められるのではなくて、読み捨てられる存在でも構わないので大衆文芸作家であり続けたい、と思っています。
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