書評

「半藤さんは山本五十六を描ける最後の書き手です」

文: 山本 源太郎 (山本五十六元帥の孫)

『聯合艦隊司令長官 山本五十六』 (半藤一利 著)

 太平洋戦争開戦から70年の節目にあたる今年12月。映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」が全国公開される(12月23日からロードショー/配給・東映)。映画の監修は、山本五十六贔屓を自認する半藤一利さんがつとめた。シナリオの段階から参画し、加えて原作本を新たに執筆。
「本の話」編集部では、山本五十六の直系の孫である山本源太郎氏にこの原作本をお読みいただき、感想を伺う機会を得た。源太郎氏は昭和36年(1961)生まれの50歳。お話の中から山本家にまつわる驚きの新事実も飛び出した!

 いっぽうまだ少年だった父にとっては、次官官舎は非常にいい思い出として残ったようです。敷地だけで2000坪。日本海軍へ教官として来日したイギリス人のために建てられた木造瓦葺きの西洋館で、官舎の庭には大きなユーカリの木があったんです。私の姉の「由香里」という名前は、その木にちなんでつけたというのですから、よほどいい思い出がつまった家だったのでしょう。日中戦争が始まって禁煙をしたという挿話が原作本にもでてきますが、タバコが本当に好きだったようで葉巻などもずいぶんたしなんでいたため、官舎にあった祖父の書斎に入っていくとプーンとタバコのいい香りがしたものだ、と聞いたことがあります。

最後の夕餉と、驚きの事実

――開戦日が決定し「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電令が発せられた昭和16年(1941)12月2日、五十六さんは久々に青山南町の自宅に帰ります。その晩、家族が囲んだ最後の夕餉(ゆうげ)の話を、お父さまから聞いたことはありますか。

山本 いや、直接は聞いていないのです。父が書いた『父・山本五十六』を読んではじめて知りました。

――最後の夕餉の食卓には鯛の尾頭付きがのったそうですね。いつもならお魚の身をほぐして子どもたちに分け与える五十六さんがこのときだけ鯛に箸をつけなかった。

山本 子どもの頃に初めて父の本を読んだとき、その意味がわかりませんでした。そこで父に、「食べなかった鯛はそのあとどうなったの?」と聞いたことを覚えています。父は「お手伝いさんにあげちゃったんじゃないかな」と答えたと記憶しています。大人になってやっとその意味がわかってきた。祖父は、戦争を始めるためにハワイに赴くことを、決して喜ぶべき門出ではない、と思っていたのでしょう。だからこそ鯛に箸をつけなかったのではないかと思い至りました。

――源太郎さんのおばあさま、五十六さんの妻である礼子さんの記憶は?

山本 祖母が亡くなったのは私が10歳のときでしたから、よく憶えています。非常に合理的で進歩的で、しっかり者でした。それに、とてもハイカラな女性でもありましたね。昭和3年(1928)に祖父がアメリカから帰国して(駐米大使館付武官から軽巡洋艦「五十鈴」艦長に転任)、鎌倉の材木座にはじめての自宅を建てるのですが、その家も、のちに暮すことになる青山の家も、祖母が自分1人で決めて建てたものです。これは祖母から聞いた話ですが、祖父は、元々は左利きなのですって。昔のことですから子どもの頃に矯正されたのでしょうけれども、左手で何でもできたと話していました。

 私の祖母の母親、五十六にとっての義理の母は山形の米沢出身です。私の名の「源太郎」は、祖父と懇意にしていた米沢出身の海軍大将、山下源太郎からとって父が名付けてくれました。山下家は親戚筋に当たり、現在も親族の方がたとは仲よくさせて頂いています。“米沢海軍”といわれたぐらい、海軍には米沢出身者がたくさんいたらしい。当時の教育者が海軍びいきで優秀な生徒たちを海軍に送り込んだと聞いています。じつは南雲忠一さんも米沢の母方の親戚なんです。

――ええーっ! 五十六さんもそのことは、ご存知だったんですよね。

山本 当然、知っていたと思います。

――それは衝撃の事実です。ミッドウェーで惨敗した南雲忠一司令長官は、草鹿龍之介参謀長を山本五十六のところに行かせて、「この仇をとらせてください。その一念で帰ってまいりました」と言わせています。で、山本さんは「良かろう」と言って、南雲をもう一回次の機動部隊に乗せる。このことを戦史研究家の多くが、このとき南雲をおろして誰かと入れ換えるべきだったと指摘しています。もしかしたら親戚だったために、情実での判断だったのか……。 

山本 ほんとうのところはわかりませんが、南雲が親戚であることが、判断にまったく影響しなかったとは言い切れない……かも知れませんね。

聯合艦隊司令長官 山本五十六
半藤一利・著

定価:1470円(税込) 発売日:2011年11月9日

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