日本代表によるワールドカップでの南アフリカ戦の歴史的勝利によって、一気に盛り上がったラグビーブーム。だが、かつて、対スコットランド戦で日本代表監督として大金星をあげ、日本のラグビーを世界に知らしめた男がいた。文武両道の逸材、宿澤広朗は昭和二十五年(一九五〇年)東京都生まれ。熊谷高校でラグビーを始め、早稲田大学に入学。
小兵ながらSH(スクラムハーフ)としてゲームをコントロールした。昭和四十六年に新日鉄釜石を、四十七年には三菱自動車京都を破って二年連続で日本選手権を制覇し、早大の黄金時代を担った。昭和四十八年、住友銀行入行。昭和五十年の英国遠征を最後に現役引退する。
昭和五十二年より七年以上ロンドンに駐在する。帰国後は、主に為替ディーリング業務を担当する。
平成元年(一九八九年)、日本代表監督に就任。記者会見で「スコットランドには勝てると思います」と発言して周囲を驚かせたが、五月二十八日、秩父宮ラグビー場に詰めかけた三万人の大観衆を前に、強敵相手に二十八対二十四で歴史的な勝利を上げる。世界をリードするIRB(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの主要八カ国)から二十九度目の挑戦で輝かしい初勝利を上げたのである。
余勢を駆って第二回ラグビーワールドカップ大会で、ジンバブエに五十二対八のスコアでワールドカップで初めて勝利した。代表監督辞任後、大塚駅前支店長となる。平成六年、早稲田大学監督就任。平成九年から、日本ラグビーフットボール協会理事に就任。平成十三年から十五年まで日本代表強化委員長に就任、オープン化を推し進めた。この間、仕事でも高い能力を発揮し、四十九歳の若さで執行役員となり、将来の頭取を嘱望されたこともある。
しかし、平成十六年、理事を突然退任する。多忙な業務のためといわれたが、協会との軋轢も理由とされた。
自らを「損得を考えないタイプ」と分析する。
仕事もラグビーも同じとして「こんなにリスクを膨らませて、一つでも逆に行ったら責任問題になってしまうようなことを、僕はやったりする。そんなリスクを背負わずそこそこやればいいのに、なぜか最大限のリスクを背負って仕事をしてしまう。損得とか、打算的なことを考えていたら、そういうことは間違いなくできないでしょう」(文春文庫「宿澤広朗 勝つことのみが善である」より)。ちなみに本のタイトルは彼の座右の銘である。
平成十八年死去。登山中に心筋梗塞を発症して亡くなる。五十五歳という若さだった。写真は平成八年撮影。
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