──物語が進行するにつれ、宙ぅ吉は後方へ退いて、代わって宙ぅ吉の隣人たち、「ご町内」の面々が活躍、というか右往左往するわけですが、彼らがまた、一皮剥けば、で。身投げしても死ねない老人、夫の浮気を疑う鬱々主婦に鳥インフルエンザ・フォビア(恐怖症)の会社員、「つやつや教」の熱心な信者でゲイの理髪師と、外見はどこにでもいる平々凡々たる隣人が、実は、というのがこの小説の一つの読みどころではないかと思うんですが。
吉村 そうですね。私は実生活では基本的に人間嫌いかも知れませんが、人間を観察するのは無類に好きです。人間ほど面白い存在はないですね。特に何かに真剣に、必死に取り組んでいる人間の姿は素晴らしい。それが大いなる勘違いや、失敗が約束された行動であればあるほど鑑賞価値があります。自分自身、四十八歳にもなると色々ガタがきていて、家の中で何かにぶつかって悲鳴を上げたり、ゴミ箱を蹴り飛ばしたり、絶対にこぼさないぞと慎重に運んでいたコーヒーカップを結局落としてしまったり、そんな事が目に見えて増えてきました。朝の急いでいる時に冷蔵庫から出したコーヒーの缶を床に落として、辺り一面粉だらけになってしまった時は、やけっぱちな笑いが止まりませんでした。独り言も増えてきて、ある時洗濯物を干していて「これがあれ過ぎるな」と言ったのですが、これがあれ過ぎるとは一体何の事なのか自分でもよく分からず、「コレーガーレスギル」というタイトルで何か短編でも書くかと思ったりしました。私は春日武彦さんが好きなのですが、春日さんの本にはそんな滑稽な人間の描写が沢山出てきて、俄然創作意欲が掻き立てられます。人は誰でも自分の事で精一杯ですが、そんな人間群像を俯瞰してみると結構傑作な事になっているんじゃないかと思いまして、『独居45』にはそんな味わいが出ていたらいいなと思います。
──宙ぅ吉にもどりますと、彼は社会、いわゆる公序良俗に対してきわめて攻撃的であり、ある種暴力性の具現者たるところがありますが、でも彼の暴力は他者に向けられることはないですよね。具体的、とりわけ肉体的にはあくまでも自らに対してのみです。そのあたり、吉村さんの「暴力観」(ヘンな言葉ですみません)についてお聞かせください。
吉村 坂下宙ぅ吉は、反撃されるのが怖いのではないでしょうか。基本的に彼は、極めて臆病なのです。人間が怖くて堪(たま)らない。従って、やられる前に自分の手でやってしまおうという考えなのだと思います。生来、マゾヒスト的な面を持っているようですし。しかしそれだけでは大義がない。そこで「自分は人類そのものであり、自分の身を以て人類の罪を贖(あがな)うのだ」という理屈を付けたものと思われます。しかし私は彼の滑稽さは脇に置いて、その人間観は、先ほども言いましたが正しいのではないかと思っています。人間はちょっと稀に見るほど残虐な生き物です。それも、自分たちが正義であると信じている時ほど残酷度が増すという、救いがたい側面を持っています。坂下宙ぅ吉が恐れるのも分かります。私も怖いです。お祭りとか、人間の野性が剥き出しになるような状況は大嫌いでして。
ところで、谷崎由依さんの訳されたキラン・デサイの『喪失の響き』の中にこんな言葉がありました。
「人は動物に釣り合わない、ひとりの人間は一匹の動物の粒子ひとつぶにも劣る。人間がろくでもない悪臭を放って堕落している一方で、ほかの生き物は誰にも害を与えず、この地球上で繊細に生きている」
そして愛犬を失って悲嘆に暮れる判事はこう呟くわけです。
「死ぬべきなのは我々の方だ」
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