ボタンダウンのシャツにブレザースーツ。コットンパンツにローファーの靴。豊かな東部アメリカの若者のファッションを、「アイビールック」と名づけて六〇~七〇年代の日本を席巻した「VANヂャケット」。
東京オリンピック日本代表選手団の公式ブレザーや、国鉄、警視庁、日本航空などのユニフォームまでも手がけていた一大ブランドが、約五百億円の負債を抱えて倒産したのは、昭和五十三年(一九七八年)だった。
創立者の石津謙介は、明治四十四年(一九一一年)、岡山の紙問屋に生まれた。明治大学商科専門部を卒業し、昭和十三年、友人の洋品店に誘われて天津に赴き繊維工場を作るが、戦争が激しくなり、軍需工場に変更。
その後八路軍、蒋介石軍、雑軍団、アメリカ軍に次々と捕らわれ、敗戦により帰国すると、故郷は焼野原だったという。土地を売って食いつなぎ、やがて大阪で復活したレナウンに就職するも、大組織の一員というのが肌に合わず、昭和二十六年に独立して石津商店(後のVANヂャケット)を設立。一時は年商四百五十二億円にまで成長した。
ビジネスが大きくなりすぎて倒産し、無一文になっても、悠々と貧乏を楽しむ「悠貧」をライフスタイルとして提唱し、その後もフリーのデザイナーや著述家として、またファッション事業でも活躍し続けた。
「男の服は世間に対する鎧であり、伝統や文化性の価値観を含むもの」というのが持論で、カジュアルにしたり、遊びを入れたりしても、常に基本のトラッドは崩さなかった。寝たきりになってもパジャマを着ず、三宅一生のシャツを着ていたことは有名だ。
昭和の激動期に個人で起業し、大きな浮沈を経験して臆することなく、伝統的価値観を大切にし、自らの美学を貫き、平成十七年(二〇〇五年)に九十三歳で死去した。
写真は平成六年、『ノーサイド』四月号のインタビュー時の一枚。特別なハンサムでもなく、凝ったファッションでもないが、八十二歳らしい貫禄と、隙のない端正な男ぶりである。それは「古きよきアメリカ」のアイビー精神であり、それ以上に「明治人の気骨」によるものであろうか。
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