抱く吾子も 梅雨の重みと いふべしや
飯田龍太は、俳人・飯田蛇笏(本名武治)の四男。大正九年(一九二〇年)、山梨県東八代郡に生まれる。飯田家は、江戸時代には名字帯刀を許された、三百年続く大地主だった。
父は大正期、「ホトトギス」全盛時代に活躍し、近代俳句を築いた。龍太は、その遺志をついで、戦後、飾り気のない感覚ながら、叙情味豊かな作品を発表した。
昭和八年(一九三三年)、旧制甲府中学に入学、一年生のとき、火災予防標語で入賞する。昭和十五年、国学院大学進学。折口信夫に師事し、句作にはげむが、病気のため、休学。兵役免除となり療養生活の後、故郷に戻る。
龍太の三人の兄は、戦争や病気のため亡くなり、また戦後の農地改革で、飯田家も時代の荒波に翻弄される。そのような苦難の中、龍太は父の句会に参加し、父が地元で主宰する句誌「雲母」の編集にも携わるようになる。冒頭の句は、昭和二十六年作。昭和三十二年、現代俳句協会賞受賞。昭和三十七年、父蛇笏が亡くなり、飯田家の家督を継いだ。昭和四十四年、句集『忘音』で読売文学賞受賞。
「氏にとって俳句とは木綿の肌着のようなもの。日常の用であるという」(「文藝春秋」昭和五十四年十月号「日本の顔」より)
一方、井伏鱒二は戦前から山梨県とは縁が深く、昭和二年に荻窪に住むようになって以後も、しばしば山梨を訪れた。戦争中も山梨に疎開し、昭和二十年七月には、甲府空襲で被災した。昭和二十七年、文藝春秋講演会で山梨を訪れた井伏は、俳人の水原秋桜子により飯田龍太を紹介される。以来両者は四十年の長きにわたって交流を続け、四百通以上の書簡を残している。
写真(左が飯田龍太)は昭和五十四年撮影。
「ヤマメ釣りは楽しみの一つ。井伏鱒二氏とは長年のつき合いで、井伏氏の釣り弟子と自称している」(同前)
飯田龍太は、平成十九年、肺炎のため、他界。