最後に本書は、韓国にはとりたてて関心を寄せるわけではないが、自分は欧米やその他の地域の政治や歴史や文化などについてはよく知っていると自負するインテリ読者にもお薦めの一冊である。
そんなインテリが、たとえばアジアや欧米のどこかの国で、韓国のインテリに会ったとする。そんなとき韓国人は「植民地時代」を、善良な韓国人が無慈悲にも日本人に土地や食料や労働力を収奪される物語として語るかもしれないが、それになんと応えるのだろうか。たまには疑念を表明するものもいるのだろうが、おそらくは同調してしまうものの方がずっと多いに違いない。
それに触れた箇所があるわけではないが、そんな日本人の態度は韓国人にとってもマイナスが大きいのだということを本書は教えてくれる。それは要するに思考停止の植民地認識であり、植民地体験からなにも学んでいないに等しいというだけではなく、韓国人にとっては、死者が生き返り、再び生者の足を引っぱりはじめることを意味するからである。
説得力の源泉
著者も記しているように、『大韓民国の物語――韓国の「国史」教科書を書き換えよ』と題する本書はいつの日か、体系的に書きなおされるべき韓国近現代史のための水先案内といった性格の本に過ぎない。にもかかわらず、李氏の本が他の本よりも陰翳(いんえい)に富み、奥行きがあるように見えるのはなぜか。
それは李氏が韓国の知識人たちがよくやるように、外来思想で事象や対象を眺め、当世流行の図式を描き出して満足するかわりに、対象に向き合い、モノゴトを考えているからではないのか。当世流行の韓国論の多くは、そんな意味ではバーチャルなものばかりだ。あの言語道断の北朝鮮の王朝に宥和的な議論を展開する韓国論、つまり金大中や池明観や姜萬吉や和田春樹や高崎宗司や姜尚中といった面々の議論がそれだ。だからそんな韓国論を読んでも、他人事(ひとごと)のような気がする。彼らの物語のなかに生きた自分を位置づけることができないからである。
本書の前半に記されているのが日本統治にかかわる問題であるとしたら、後半に記されているのはアメリカや北朝鮮との関係の問題で、そのいずれにおいても、李榮薫氏は自分の国がなにものであるのかを真摯(しんし)に問い続ける。自国のナショナル・アイデンティティを問う作業は、自国の歴史をどのように統合するかの問題であると同時に、他国や他文化との共有性の問題であり、だからここには日本もアメリカも北朝鮮も中国も登場するが、私が知る限り、李榮薫氏ほど自国のアイデンティティについての説明責任を明瞭に果たした韓国人はいない。
しかしこのことは李榮薫氏という人物が日本に阿諛(あゆ)迎合するような人間であることを意味しない。訳者の永島広紀氏はあとがきで次のように記している。「実証を伴わない観念的な思考を極度に排する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しい。その意味では日本にとっては最も手強い相手の一人であるのかも知れません」。同感である。
-
『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/17~2024/12/24 賞品 『リーダーの言葉力』文藝春秋・編 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。