書評

女の五十路、淋しさの中にももぐべき果実あり

文: 温水 ゆかり (ライター)

『実りの庭』 (光野桃 著)

 この時期はまた、夫婦独立の時でもある。単身赴任中の夫が暮らすシンガポールで食器棚にしまわれたままの大皿を目にする第三篇では、ミラノではパスタやてんぷら、バーレーンでは五目寿司や和風サラダを賑やかに盛りつけた食卓の光景が蘇るが、三度の国際引っ越しに耐えた頑丈なこの大皿に、二度と出番がないことも予感する。夫は定年後、バックパックで世界を旅するという夢に向かい、食事の量を減らし、油物を口にせず、旅仕様のからだづくりに励んでいるのだ(「青薔薇の皿」)。

 母の死後、著者は暮らしの器も変えた。郊外に引っ越すまで少女時代を過ごし、貸家として機能した後、晩年の母が一人で住んだ一軒家。売るに売れなくてリフォームを決意。財布に穴が空いたのかと思うような出費を経て、母の愛猫とともにまたその家に戻る(「カナリア色の玄関扉」)。家の整理に三年も手をつけることができず、テレビで偶然見た遺品整理屋に電話していっさいを任せる経緯などは、とても他人事とは思えない。

 私事ながら、父の死をきっかけに、少し物を減らそうねと食器などの整理にかかった私に、八十七歳の母は狂乱のていで食ってかかった。母親を見送った男兄弟ばかりの知人が、「二階の押し入れからオヤジの新品のパンツが二百枚でてきたよ」と苦笑混じりに報告してきたのを思い出す。

 欠乏の記憶、家族が繁茂していくときの楽しい記憶。物には記憶が貼り付いている。老いとは記憶を整理できない、したくない状態のことだと思い知らされるのも、折り返し地点を過ぎたこの時期に味わわされる“先取りの恐怖”に違いない。ちなみに遺品整理に要した金額二十五万円。「物を捨てるのに、この金額とは、何かが狂っているとしか思えない」という一文には、同じ言葉でうめき返したくなる。

 日本の女の平均寿命を、とりあえず“女の一生”と呼ぶなら、半ばを折り返してからの十年は、時間、労力、体力、涙、予定外の出費と、なんとたくさんのものを女から奪っていくことだろう。家族の関係もそう。娘は、母が娘に譲るからという名目で自分に許した贅沢な宝飾品には見向きもせず、いい物の価値を説いてきた母は、バブル破裂後を地味に生きる娘の背中をだまって見守るしかない。住みなおし、生きなおし。もはやそれらは、リセットなどという言葉ではまかないきれないほどの一大事業だ。ここにいたって冒頭の〈女女女〉は、世代ではなく、母の娘であり、娘の母であり、誰かの妻であるという女の三変化(へんげ)のことでもあったのだと思い知る。このエッセイが著者の身体を襲った異変と、未曾有の東北地震で締めくくられるのも象徴的だ。

 読後、思う。女とはなんと淋しい生きものであることか。女の五十路とは、この淋しさを耕す時期のことかもしれない、と。光の角度で色が変わるような織り地に縫い取りしたような文章が、淋しさの中にももぐべき果実があることを教えてくれる。

実りの庭
光野 桃・著

定価:1500円(税込) 発売日:2011年05月27日

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