それが高校時代のことだったのか、それとも大学に入ってからのことだったのかは定かではないが、マックス・ヴェーバーの著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に出会ったことも、宗教と経済との密接な関係を私に意識させることに大きく貢献した。もっぱら利益の獲得を追求する資本主義の精神が、実は、それとは対極にあるように見える禁欲的なキリスト教の倫理のなかから生み出されたとするヴェーバーの学説は、私などの今回の試みよりはるかに大胆で、斬新である。
宗教や信仰との関係ということで、経済学の理論を振り返ってみると、さまざまな場面で、その密接さに気づかされる。
そもそも、「経済学の父」と評されるアダム・スミスには、市場には神の力が働き、それをうまくコントロールしてくれるのだとする「神の見えざる手」の主張があると言われる。資本主義を批判的に分析したカール・マルクスの理論を見ていくと、搾取(さくしゅ)に走ることで人間性を喪失した資本主義が崩壊した後に、それに代わって、理想的な共産主義の世界が訪れると予言したところには、明らかにユダヤ・キリスト教的な終末論が影響を与えている。
最近でも、「市場原理主義」ということがしきりに言われるようになり、金融恐慌を引き起こしたのは、その誤った市場原理主義にあったと言われることが多いが、このことばが登場するにあたっては、さまざまな宗教で原理主義が台頭したことが影響している。イスラム教原理主義が世界の動向に大きな影響を与えるようにならなかったとしたら、市場原理主義ということばは生まれなかったに違いない。
日本の社会や、現在経済発展が続くアジアの中国やインドの社会には、ユダヤ・キリスト教の信仰はそれほど深くは浸透していない。日本など、その信者は一パーセント以下である。少なくとも、市場をコントロールしたり、人間が腐敗堕落したと判断されるときには、世界を滅ぼすほどの力を発揮する強力な神への信仰は存在しない。しかし、ユダヤ・キリスト教、あるいはその影響を受けて成立したイスラム教が広まっている国や地域では、強大な力を発揮する絶対的な神への信仰があり、そうした世界に生きる人々の考え方の前提となっている。
経済という現象が、極めて重要な役割を果たすようになった現在の社会に生きる私たちは、その分野への宗教の影響を認識し、その意味を理解する必要がある。そうしたとらえ方は、経済学自体の世界からは生まれてこないし、まして、ユダヤ・キリスト教、イスラム教が深く浸透した世界では決して意識されないことである。日本の宗教学者しか、それを指摘できないと主張したとすれば、それはあまりに僭越(せんえつ)なことになるだろうか。私には、そう言い切ってみたいという思いと少しだけの自信がある。
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