――初当選の翌年(1977年)に発症した悪性リンパ腫に始まり、直腸、前立腺、下咽頭と、4つのがんと闘い続けてきたことを、今回、本にまとめられたきっかけは?
与謝野 長年、築地の国立がん研究センター中央病院で診てもらっているのですが、数年前に名誉総長の垣添忠生さんに頼まれて、医師たち100名ほどに闘病人生を話しました。そのときの講演録を親しい編集者に見せたところ、本にしましょうと勧められたんです。
しかし、私はだらしなくて、日記をつけていないし、手帳にきちんとした記録も残していない。まず、取材・構成を担当してくれた医療ジャーナリストの青木直美さんと、悪性リンパ腫が見つかった病院を訪ねることから始めました。すると、30年以上前のカルテがきちんと残っていたんですね。もちろん残っていない病院もありましたが、国立がんセンターには全部保存されていました。
当時は、政治家ががんになったなんて話が漏れたら一巻の終わりですから、国立がんセンターでは、偽名の『吉田昭夫』で診察を受けていました。これは小学校時代の親友の名前なんです。本名でないから、健康保険がきかなかった。
――奥様や秘書の方々にも、がんであることを明かされなかったそうですね。
与謝野 まあ、周りが騒ぎ立てたところで、がんが治るわけではありませんから(笑)。それに大将が病気だと分かったら、支えてくれる秘書たちの士気にも関わるでしょう。
実は女房も今から20年ほど前に大腸がんで手術していたので、その6年後に私が直腸がんになった時だけ、伝えました。それ以外は未だにきちんと話したことはありません。
母も60代で食道がんになったのですが、当時は告知なんてとんでもないという時代。姉から母の病状の相談を受けた際、すでに私は悪性リンパ腫だったので、『年をとれば、がんくらいなるだろう』と言ってしまい、えらい怒られました。 それで、母にがんだと悟られないようにしつつ、がん専門病院に入院させる役回りになったのですが、至難の業でした。
――がんと闘病しながら、文部、通産、財務、経済財政担当など、閣僚の職務をこなすのは大変だったのでは。
与謝野 治療は抗がん剤と放射線によるものが多かったので、週に何度か外来に行くだけで、それほど仕事に差し支えなかったんです。ただ、放射線治療の影響で膀胱がボロボロになり、血尿に悩まされました。民主党に大敗した09年の総選挙は、公示前日に止血手術を受けて、麻酔をぶら下げて戦っていたんですよ。
39歳でがんになり、医学書に『余命2年』と書かれているのを見たときは、青雲の志も霧散する思いでした。食道がんの世界的権威だった中山恒明先生と親しくしていたので、政治家を続けるべきか相談したところ、『死ぬ時はちゃんと半年ぐらい前には教えてあげるから。身の回りを整理して政治家をやるしかないよ』と肩を叩かれました。その言葉が心の中で土台になって、今日まで来られたように思います。
――これまでに再発も3度経験されていますが、それでも心が折れずにがんと闘いつづけてこられたのは。
与謝野 まず、医師と病院に対する“宗教的信条”と言ってもいいくらいの信頼感がありました。それは、柳田邦男さんの書かれた『ガン回廊の朝』(講談社文庫)や『ガン50人の勇気』(文春文庫)を読んだことも影響しているでしょう。
末期がんの場合など、民間療法にすがる方も多いようです。もちろん、患者や家族の精神的支えとなることもあるので、頭ごなしに民間療法を否定はしません。しかし、それに頼りきるのではなく、まずはきちんとした医療を受けるべきです。
35年の『がんサバイバー』生活で、私の中には“3人の自分”がいるようになりました。政治家として、闘病する患者として、そして、それを客観的に見る自分です。
前立腺がんの主治医に、こう言われたことがあります。
『与謝野さんみたいに、冷静に、客観的に自分のことを見られる人のほうが、結果的に良い経過をたどるんですよね』
四六時中、がんのことばかり考えて嘆いてもしかたありません。治療に専念するのはもちろんですが、患者であることに夢中になりすぎないこと。私など、褒められたことではありませんが、食生活には無頓着だし、一時は禁煙したものの、今も気晴らし程度にタバコを吸っています。
一番大事なのは、些細なことでも体調の変化に気づいたら、すぐに検査を受けること。私は、それで4つのがんと3度の再発を早期に見つけられたのですから。
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