書評

『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』解説

文: 辻村 深月 (作家)

『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』 (奥泉光 著)

 どうして私のもとにこの解説の依頼が来たのだろうか、とまずはたっぷり考えた。

 おそらく、私が桑幸(クワコー)曰く“本来なら青森の横あたりにあるべき”な“千葉に大学を作ればだいたいこんなもんだろう”という千葉大学出身であることだとか、だからこそ、桑幸の下流准教授の生活感のリアリティーや、彼が勤務するたらちね国際大学の環境に震えて、連載時から食い入るようにこの小説を読んでいたことだとかが関係しているように思われる。

 そして、連載時からこの小説を愛し、読んできた私は、だからこそ、本作に関して、誰よりも「読め」と薦める権利があると勝手に思っている。愛読してきたクワコーが三編を連ねる単行本の形にまとまった際、書店で本作の表紙を見た私は、凍りついた。一体、何が起きたのかわからなかった。

単行本表紙

 桑幸が、かっこいい、のである。

 私好みの眼鏡男子ど真ん中の顔をした桑幸がそこにいた。驚き、そして、一瞬の後にぶわーっと悔しさと、言いようのない怒りに襲われた。それは率直に言って、ズルい、という気持ちであった。桑幸がこんなにかっこいいなんて知らなかった、これなら存分に萌えられるじゃないか。萌えられないまま掲載誌で先に読んでしまった私の初読体験を返して欲しい、私だって、この桑幸を想像して、その情けなさを「かわいい♥」とか思いながら、萌えて読みたかった。ズルいズルいズルい。

 これはもう慰謝料を要求できるレベルじゃないかと版元である文藝春秋の告訴を真剣に検討したほどだったが、その後、本作を原作とした『妄想捜査』が佐藤隆太主演でドラマ化されるに至っては、本格的に言葉を失い、もうこれは、何度となく読み返すことで、勝手に桑幸を不細工な中年として読んでいた自分の思い込みを恥じよう、クワコーは萌えられるんである、と気持ちを切り替えた。考えてみれば、桑幸って、本当はかわいかった。意地汚いオッサンだけど、見方を変えれば健気(けなげ)だし、愛おしかった。それが初読で見抜けなかったのは私の落ち度である。

 聞けば、文庫のカバー絵も単行本の時と同じ加藤木麻莉さん。そんなわけで、彼女の描く私好みの桑幸を表紙に見た上で本作を読む、という至福をこれから享受できるであろうに、読まないという選択をする人を私は許せない。今、解説から先に開いて、本作をレジに持っていくのを躊躇(ためら)う、特に女性には強く言う。読め。買え。絶対情けない中年に胸キュンして、萌えられるから。

 さて、とやや熱いここまでが冒頭である。

 本作が著者、奥泉光氏による実験的とも言えるキャラ萌え小説であることをおわかりいただけたところで、まずは戸惑う読者もいるかもしれないから先に言っておく。ええ、この本は、大丈夫、奥泉さんの本です。「奥泉光って、あの『シューマンの指』とか『グランド・ミステリー』の……?」とか「芥川賞選考委員の……?」とか思われてる方に言っておく。そうです、あの奥泉光さんの本です。私たちが思う、奥泉作品の重厚さや、クセになるような濃密さを軽やかに飛び越えた、本作は奥泉さんが描くユーモア・ミステリである。知と重厚さのミルフィーユとも言うべき奥泉ミステリが、今度は軽薄さをミルフィーユ状にしたとでも言えばよいだろうか。読み口が軽くても、濃密さ健在。矛盾した言葉だが、なんというか、クワコーシリーズは、くどいくらい軽い

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桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活
奥泉 光・著

定価:720円+税 発売日:2013年11月08日

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