読後に長く余韻の残る小説がある。なぜ、余韻が生ずるのか。そこには勧善懲悪や善悪では割り切れない出来事が描かれており、それにかかわった人々の人生を微細に見れば、白とも黒とも言い切れない後味が残るからだろう。その意味で、木内昇の『ある男』は大人が読める小説である。
本書は、明治維新後の事件を取り上げ、それにかかわった地方の名もなき男たちの群像を描く。本書は七つの短編からなるが、明治維新が大変革だとすれば、木内が取り上げるのはその後の小さな出来事の積み重ねである。
まず「蝉」では、明治政府の大蔵大輔(たいふ)だった井上馨が、負債を抱える請負方の鍵屋から尾去沢銅山の採掘権を奪い、商人に払い下げた事件を扱う。鉱山で働く金工(かなこ)の多くはじん肺で死ぬため、爆破して器械で掘る方式に変えるという。ある金工が東京へ出て井上馨に直訴するが肩すかしを食らう。そして故郷に戻った彼にもじん肺の症状が出てくる。
「喰違坂」は、発足間もない東京警視庁に勤める男が、明治七年一月に起きた岩倉具視襲撃事件の犯人の口を割らせる話である。薩長藩閥政府の中で肥前出身の男は、西郷隆盛とともに政府を去った土佐藩出身の犯人を斬首に追い込むことで出世していく。
「一両札」は、贋札造りの片棒をかつぐ年老いた職人気質の男の話である。
「女の面」では、飛騨の地役人が、中央から新しく派遣された県知事による年貢増徴に際して、妻の意見も聞かず、百姓の話をただ聞くだけに終始して、やがて焼き討ちに遭う。
「猿芝居」は、英国汽船ノルマントン号が沈没し、英国人船員だけが生き残り日本人旅客全員が死亡した事件を扱う。不平等条約の改正交渉を有利に導くために、国内の批判を抑え、丸く収めるようにとの中央政府からの命令に対処しつつ、英国人船長の裁判答弁書の草案を書いた船場の商家出身の県庁役人の話である。
「道理」では、会津戦争で敗れて会津に残り私塾を開いた男が、三島通庸県令による圧政に立ちあがろうとする百姓の塾生たちの暴発を何とか食い止めようと奔走する。
「フレーへードル」では、岡山美作の中農である男が、豪農中心の自由民権結社に加わらず、千葉県の村会議員桜井静と連絡をとりながら地方連合としての国会開設と憲法私案を作成する。登場する男たちはいずれも事を成就したわけではなく、歴史上に名を残したわけではない。
明治維新は理想を掲げて成し遂げられた大きな変革である。司馬遼太郎が描く明治維新の「英雄」たちは、何事かを成し遂げた側の世界である。
しかし理想を掲げて遂行された大変革は、他方で理想に裏切られた者たちを生む。島崎藤村の『夜明け前』は裏切られた地方の側の世界である。『夜明け前』の舞台は木曾馬籠である。平田国学を信奉する本陣・庄屋である青山半蔵が理想とした王政復古が実現したにもかかわらず、民衆の苦しみは変わらない。青山は狂人となり、やがて座敷牢の中で死んでいく。
木内の小説も裏切られた地方の側に立つ。だが、そこに登場する人物はあくまでも名もなき「ある男」にすぎない。彼らは、青山半蔵が信奉した平田国学のように体系化された「理想」を持っているわけではない。そのベースにあるのは、地域に固着する生活のあり方であり土着の慣行である。
だが、それだけではない。この短編小説集の一つひとつの物語をつなぎ合わせていくと、木内の視線が見えてくる。それは、外国との戦さや内戦がもたらした傷を自覚し、暴力的衝突を極力避けようとする男たちの姿勢であり、明治維新によって成立した中央集権国家体制に対抗して地方のことは地方で決めようとする姿勢である。そして、彼らが抱えた見果てぬ夢こそは、今も日本社会に重くのしかかる明治維新の「負の遺産」の克服であることに気づかされる。奥の深い小説である。