- 2018.02.19
- 書評
著者を命名した初めての私小説――「プロローグ」はまだはじまったばかりだ
文:佐々木 敦 (批評家)
『プロローグ』(円城塔 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
(以下の記述はいわゆるネタバレを少々含みますが、出来れば本編の前にお読みください)
はじめに「はじめに」があった。あなたは今、このひとつ前の文章を読んだばかりだ。読むことによって、この二つ前の文章を遂行し、確認した。この三つ前の文章は正しく、その正しさは一通りではない。この四つ前の文章ではじめられた、総計100個の文章の連なりから成るこのこれは、円城塔『プロローグ』の文庫解説である。この解説は、この文章の後、94個の文章で終了する。この解説は、この文章のあと、93個の文章で終了する。このように、この一つ前の文章、この二つ前の文章と同じ文章を、数字の部分をマイナス1に書き換えてゆくことで、「この解説文は、この文章の後、1個の文章で終了する」まで続け、最後に「おわりに置かれるのは「おわり」」とでもしておけば綺麗に終われるのだが、残念ながらそれでは「解説」にならない。というか、それはほとんど「それそのもの」でしかない。しかし見方を変えれば、そのようなもの、これ以後の文章の連なりがけっしてそうはならないだろう、そのような文章の連なりの特異なあり方こそ、この解説の対象であるところの『プロローグ』がしていることだと言ってみたい。何しろ、あっちのはじめはこうである。
名前はまだない。
自分を記述している言語もまだわからない。手がかりというものが何もないので、これが文章なのかさえ、本当のところわからないのだ。しかしそれでは何も進まないので、とりあえず文章なのだと仮定してみる。
右の引用の二つ目の文章の頭に置かれた「自分」に注目してみたい。それからその次の文章の「これ」にも。その次の文章の主張することは、すなわち「自分=これ=文章」ということである。これはまったくもってその通りであり、難があるとすれば「その通り」以外/以上のことが何も述べられていないようだ、ということだろう。ざっくり言って、今(とは畢竟それぞれの「今」でしかないのだが)、現に書かれ/読まれつつある、ひと連なりの文章それそのものがとつぜん語り始めており、それが語れるものといえば今のところは「自分」であり「これ」である何かでしかなく、そしてそれは誰の目にも明らかなように「文章」と呼ばれるものであるということで、まったくもってその通りである。これがこれをリアルタイムで記述する。たとえば「これはこれである」。或いはこういう文章もある。「わたしは今、この文章を書いている」。或いはこういう文章もある。「あなたは今、この文章を読んでいる」。この二つの文章は、時空を越えて向かい合っている。このような文章のことを何と呼ぼう。このような「これ」のことを何と名付けようか。それを『プロローグ』の作者はかつて「Self-Reference ENGINE」と名付けた。自己言及機関。それはこの作者の最初の小説のひとつでもある。2007年のことだ。『Self-Reference ENGINE』は、円城塔のデビュー長編である。小松左京賞の最終候補落選作(受賞作なし)を改稿した作品だった。相前後して「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞受賞、第137回芥川賞候補となり落選。それから四年後に「これはペンです」で第145回芥川賞候補となり落選。それから半年後に「道化師の蝶」で第146回芥川龍之介賞受賞。しかしこういうことを解説に記すのは狡いのではないか。この文庫本のカバーのどこかに記されているかもしれず、そうでなくてもGoogleその他の検索エンジンに「円城塔」と打ち込めばすぐさま出てくる情報に過ぎない。便利な時代になったものだ。便利な時代になってから久しい。便利な時代の成れの果てにおいて書かれたのが『プロローグ』だと言ってもよい。便利が度を超すと却って一本道が迷路になってしまう、という認識を齎すのが『プロローグ』だと言ってもよい。話を戻すと、先ほど語り始めたばかりの「自分=これ=文章」は、大変残念なことに、事もあろうに「日本語」と呼ばれる超マイナー言語であったという驚くべき、だが誰の目にも最初から明らかだった事実が開示され、と同時に「自分=これ=文章」は「英語」なり何なりに翻訳される可能性をもあらかじめ心得ているようでもあり、しかし今、あなたの目に見えている文字が「日本語」であるように、これの前に置かれているはずのひと連なりの文章たちもまた「日本語」であることは一目瞭然で、しかし「自分=これ=文章」であるところの、日本語で書かれた『プロローグ』と名乗る小説はまだはじまったばかりだ。ところで、この「自分を記述している言語」が差し当たり「日本語」であるということを「自分=これ=文章」に教えるのは「わたし」である。と言っても、わたしではない。
丁度傍らを通りかかったわたしへ向けてこんにちはと声をかけると、こんにちはと返事が戻った。これは音声と思われるかも知れないのだが、この通り、目に見えている文章である。
「この通り」というのは、その通りである。わたしの三文字がこの並びでひとつの意味を成すものとして記されるのは、ここが最初である。「わたしはちょっと困った顔で「僕は今、吉祥寺のアーケードにあるエクセルシオールカフェの二階でこれを書いており、通りかかったのはそっちの方だ」ということを言う」。ひとつ前の文章は鉤カッコで括られていることでもわかるように引用である。二つ前の文章には気になるところが数カ所ある。鉤カッコ内鉤カッコの「僕」というのが「わたし」と同一の存在であることはわかるが、何か変である。というかあからさまに変だ。あからさまなのを説明するのも無粋だけれど説明すると、いきなりはじまってからというもの、ここまでの文章の連なりを音声ではなく「目に見えている文章」のかたちで語っているのは「自分=これ=文章」であるらしい、ということはおおよそ確かなことだと思われたのだが、だとすればこの「わたし」とは何だというのか。「丁度傍らを通りかかったわたしへ向けてこんにちはと声をかける」って誰が誰に「こんにちは」を言っているのか。そして誰が誰に「こんにちは」と返事しているのか。二つ前の問いへの答えは「「自分=これ=文章」が「わたし」に」であり、一つ前の問いへの答えはその逆である。しかしもちろん、これでは何も答えたことにはなっていない。そして問題をさらにややこしくしているのは、これの十個前の文章(引用)中の「これを書いており」の「これ」であることは言うまでもない。「これ」とはどれか。これはこれである。「これ」はこれである。これは「これ」である。「これ」は「これ」である。今、これを書いているわたしは「わたし」と今しがた呼ばれたばかりだが、これは「呼ばれた」を「名乗った」と書き換えても同じことである。だとすると、どうなるのか。「自分=これ=文章」を今、書きつつあるのが「わたし」なのであり、つまり「わたし」は遅ればせながら登場した、いうところの「一人称」のアレということになるのだろうか。アレには「語り手」を入れても「作者」を入れても両方入れても良いような気がするが、そのどれを入れたとしてもモヤモヤした感じは残り、モヤモヤするように書かれている。しかも、よりにもよって「わたし」は「自分=これ=文章」との対話の中で、こんなことを言い出す。「日本語は、なんとなく文字列を処理しながらだらだらと愚痴を連ねていくという仕事には向いていると思う。私小説というやつだね」。だらだらと、という意味ではこの解説もそうかも知れないが、わたしは今のところ愚痴は言っていない。むしろだらだらと愚痴を言っているのは「自分=これ=文章」のようにも思える。
さすがにそろそろ名前を持つべきではないかと思うが、今日も今日とて喫茶店でこの文章を書いているわたしの方にはこの期に及んで尚、自分の書く話の登場人物に名前を与えるつもりがないようだ。「名前はまだない」ということだから、名前は「まだない」なのかも知れない。だってそう書いてある。あるいは「名前はまだない」自体が名前なのかもわからない。
ともあれ程なく名付けの儀式が執り行われることになるのだが、どういうわけか名前を与えられるのは「わたし」が面白がって「臣」と呼んで(本文参照)みせたりもする「自分=これ=文章」ではなく「わたし」の方なのだ。雀部。「名前」を産出するためのプログラムが案出され、雀部に続く文字が選出される。雀部曽次。続けて理由は不明だが、もう一つの名前も導出される。榎室春乃。
榎室春乃とわたしはいう。榎室春乃が、自分の名前は榎室春乃であると言っている。
名前を手に入れ、ようやくわかった。雀部と榎室は根本的に別の人間で、雀部と榎室はそれぞれ別のわたしであるのだ。このわたし、榎室春乃を書いてきたのは雀部の方だが、雀部や榎室の名を決めたのはわたしの方だ。わたしにはまだ、自分を記述する言語の見当さえついていないが、それでも今や自分のことを、著者を命名したはじめての小説なのではないかと自負している。
これで引用は終わり、というか、この解説もあと残り僅かだ。しかしまだ『プロローグ』ははじまったばかり、プロローグの段階でしかない。だがしかし、あれを読みはじめるための準備、或いはあれを読み終わってから二読目、三読目、n読目をはじめるための準備としては、これで差し当たり足りているのではないかと思う。『プロローグ』とは「著者を命名したはじめての私小説」なのであり、その場面をプロローグとして、雀部曽次と榎室春乃と、その他の名前を与えられた存在たちが「わたし」によって書かれ/語られ、ではなくて、「わたし」の方を記述し叙述してゆこうとする「小説」なのである。つまりこれはまたもう一つのセルフリファレンスエンジンなのだ。そしてすべての文章の連なりの向こう側には、更にまたもう一つの『エピローグ』と呼ばれるエンジンが鎮座している。従って、この解説のおわりに置かれるのは「おわり」ではない。「つづく」である。
(ハヤカワ文庫JA『エピローグ』解説につづく)
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