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Phantom

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羽田 圭介

文學界5月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 5月号」(文藝春秋 編)

 湯船からあがった華美(はなみ)は、スウェットのパンツだけ穿き頭から胸にバスタオルを垂らした格好で、やかんに水をくむ。定量に水位が達したところで止め、間続きの八畳間の窓辺にしゃがんだ。

 三つ並べられた鉢のうち左、小さな丸っこい葉をしげらせた六号鉢のセンカクガジュマルへ水をやる。正月以来三ヶ月近い断水で乾き、白っぽくなった土の上で、たまった水は数秒間まったく染みこまなかった。数カ所から気泡があがり水位が下がりはじめ、最後に表土の白っぽさも消えた。深緑色の葉の中に、黄緑色の小さな新芽がいくつか混ざっている。先月、窓に貼るUVカットフィルムを高遮光タイプに貼り替えたばかりだが、植物の生育に必要な可視光はちゃんと通しているようだ。

 鉢植えの土に与えた水の量はぴったり適量のはずだが、華美はTシャツを着ると台布巾を手に、鉢受け皿から水がこぼれないかしばらく見守る。高倍率のなか当選し入居できた改築したてのUR賃貸住宅の綺麗なカーペットに、染みをつくるわけにはいかない。

 スマートフォンが鳴った。華美は車で帰宅してからずっとローテーブル上に置いていたそれを手にとった。

 大学時代の友人からメッセージを受信していた。久しく会っていない、演劇サークルの同期だった彼女から、平日の夜に突然、メッセージが届いた。文面が華美には推察できた。

 開いてみると予想どおり結婚報告と、二次会への招待だった。フォーマットを流用しただけと丸わかりの丁寧な文面で、華美への個人的なメッセージは一文も記されていない。

 

■二次会詳細

日時:四月××日(日)

受付:一八時一五分

開宴:一八時四五分

会費:男性八〇〇〇円 女性七〇〇〇円

会場:×××

※白金台駅(東京メトロ南北線・都営三田線)二番出口より……

 

 二次会からでいいのか。挙式や披露宴に参加しないのなら、ご祝儀の三万円は必要ない。華美は、二次会参加にともなう総費用を試算する。

 女性の会費が七〇〇〇円。ここ千葉から東京まで、JR線と東京メトロを乗り継いでの交通費概算が往復二四六〇円。三次会にも参加することになった場合の費用を三〇〇〇円と仮定する。

 合計、一万二四六〇円。

 そして、使うかどうかを自分で選択できるその金額に対する計算式が、たちあがる。

 便宜的に一万円で計算するとして、それで配当利回り五%の高配当米国株を買えば、円換算にして一年で五〇〇円の配当金がもらえる。それを元手の一万円に足しての配当を計算、つまり配当金再投資による複利運用をし続ければ、一万円が一〇年後には一万六二八九円に、二〇年後には二万六五三三円、三〇年後には四万三二一九円になっている。

 また、配当金増額を見込み、長期的観点から配当利回り七%で計算し直すと、一〇年後には一万九六七二円、二〇年後には三万八六九七円、三〇年後には七万六一二三円となる。

 数秒の間にそれらの数値が導き出されたが、華美の頭の中で行われていたのは暗算ではなく、覚えてしまった数値の想起だった。

 今の一万円が、三〇年間寝かせておけば七倍以上になる。

 三〇年後――六二歳になった頃に、彼女との友情は続いているか?

 未来の七万六一二三円と、続いているかわからない友人とのつながりの、どちらをとるか。

 

〈結婚おめでとう! よかったね、我がことのように嬉しいよ~。

 そして、本当に申し訳ないんだけど、その日出張が入っちゃってて……〉

 

 入力したばかりの返信メッセージを華美は送信した。意志決定の早さを見せつけることで相手を驚かし、それにより“行かない”という返事につきまとう負のニュアンスが相殺されることを見込んでいる。

 スマートフォンの時刻表示を見ると、午後一〇時三五分だった。東京証券取引所から一三時間半遅れでニューヨーク証券取引所等アメリカの株式市場が開かれたばかりで、英字表記の証券ポートフォリオ管理アプリには、登録済み銘柄の株価が表示されている。

 長期投資家の華美は、デイトレーダーと異なり毎日板に張りつく必要はない。ただ、四半期決算を迎える企業もそれなりにある三月末ということもあり、一応市況は確認しておこうとノートパソコンの電源をオンにする。六年落ちの古い型だが、リアルタイム証券取引ソフトをたちあげるのには事足りた。

 

この続きは、「文學界」5月号に全文掲載されています。

文學界(2021年5月号)

文藝春秋

2021年4月7日 発売

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