「体験が不足したら子どもが“負け組”に転落するかも」…「体験格差」が刷り込む格差意識
子どもにとってさまざまな体験が大切なのは言うまでもない。しかしいま、“体験”への過度な期待や、その裏返しとしての焦りが、子育て世代に蔓延している。
巷では「正解がない時代だし、大学入試も脱ペーパーテストの流れだし、これからは学力よりも非認知能力が大切らしい。非認知能力を伸ばすには、いろんな体験をさせたほうがいいらしい」と言われている。非認知能力ブームから体験ブームへの流れだ。
しかも昨今は、「教育格差」のみならず「体験格差」なる言葉まで登場した。本来、体験の機会に恵まれない子どもたちを社会全体でバックアップしようというメッセージを含んだ言葉だが、子どもたちとかかわる現場からは評判が悪い。不協和音のような薄気味悪い言葉の響きが、わかるひとにはわかるのだ。実際、体験が不足すると“負け組”に転落するかもしれないという恐怖を、子育て世代の無意識に深く刻み込んだ。
「水泳、サッカー、武道、ピアノ、絵画・造形、英語、プログラミング……、異文化体験や職業体験に……あっ、そうそう、自然体験もね!」と、まるで体験の詰め込み教育だ。もちろんお勉強ができることは大前提。中学受験や小学校受験や、あるいはインターナショナルスクール入学を見据えて、塾や学習教室にも通う。親たちだって自ら望んでそうしているわけではない。「呪い」にかけられて、そうせざるを得ないのだ。
二〇二四年八月には、SNSで次のような投稿に多数の「いいね」が付き、共感を集めていた。
「あれもこれもと体験系をやらせ、あちこち旅行に連れ回した結果、上の子は経験に耐性ができてしまったように見える。私が子どもの頃に味わった、価値観が変えられる経験の数々が、彼にとっては風景になっている。彼から感動の機会を奪っているのは私なのかもしれない。豊かって多分そういうことだ」
かつての学歴社会はシンプルだった。お勉強さえできて、いい大学に行けさえすれば、教育における競争の“勝ち組”になれた。しかしいま、「お勉強にプラスして体験型学習までも家庭の責任でお金をかけてやらせなければ、わが子が“負け組”に転落してしまうのではないか……」という不安を抱える親は少なくない。学びの主軸がお勉強から体験型学習に移行したわけではなく、従来のお勉強のうえに、体験型学習も追加された形だ。
「非認知能力はどこで手に入るのですか?」
「最もコスパとタイパがいい体験は何ですか?」
「どんな種類の体験をどれくらいさせればバランス良く非認知能力を伸ばせますか?」
「それらを詰め込んだ、幕の内弁当みたいな体験パッケージはありませんか?」
──ないならつくりましょう! そうして体験がコンテンツ化され商品化され消費される。子育て世代が手にするスマホには、そういう情報が溢れる。体験が課金ゲーム化する。お金持ちほどお金をかけるので、費用や回数という意味ではますます格差が開く。
学力(認知能力)のみならず非認知能力までもが、あるいは、お勉強のみならず体験までもが、教育における競争の対象になったわけだ。競争とはつまり、規格化され、評価され、比較され、序列化されることを意味する。
企業を対象にした“人材育成”サービスにおいて、ビジネスパーソンとして求められる素養に「○○力」「□□力」「△△力」のようなあたかも“能力”と見える名称を次々つけて、それを測定するツールをつくって数値化し、不足している“能力”を伸ばすための研修が商品化されるのと同じだ。
このままでは、体験を通した学びの喜びが根こそぎ奪われかねない。子どもたちの個性が“能力”に還元されて、序列化されかねない。子どもたちに“格差”が刷り込まれかねない──。教育ジャーナリストとして私は、それを危惧している。
そこで本書は、「体験格差」という言葉の響きがもつ薄気味悪さを手がかりに、親たちを体験の詰め込み教育に駆り立てる「呪い」の正体に迫る。
第一章では、体験ブームの背景を読み解く。第二章では、子どもが育つうえで本当に必要な体験は何かを探る。第三章では、「体験消費社会」とでも呼ぶべき状況のゆく先を見通す。体験格差解消を掲げて活動する団体の声も聞く。
体験や非認知能力に対する誇大妄想を解きほぐし、子どもにかかわるひとたちの肩の荷と、子どもたちが感じるプレッシャーを、少しでも軽くしたい。
*非認知能力……やり抜く力、コミュニケーション能力など、テストでは測れない能力のこと。詳しくは一九ページ以降を参照。
「はじめに」より
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