平成という時代が終わり、眼の前から過ぎ去りつつある。
ひとつの時代は社会を代表するものが記述された時、はじめて歴史になるという。ならば、私たちは誰を語り、誰を描けば、平成を歴史とすることができるのだろうか。将来、誰を時代の象徴として記憶に留めることになるのだろうか。
時の流れは速くなりテクノロジーの進化によって、情報量は格段に増えた。人気者も、権力者も、あっという間にいなくなる。生まれては消えていくスターたち。記憶におぼろな出来事の数々。代表者なき時代、それが平成の特徴だという皮肉屋の声も、どこからか聞こえてくる。
ならば、そこにもう一つ、「女」という枠を与えてみたらどうだろう。少しは答えが出や すくなるか。平成を代表する女性は、誰か。そう考えてみた時、初めて彼女の名が思い浮かんだ。
「しょせんは権力者の添え物」、「時代の徒花(あだばな)」といった冷めた意見や異論もあることを知っている。だが、添え物にしろ徒花にしろ、そこにはやはり、時代の特徴とでもいうべきものが、現れていると見るべきだろう。
彼女は平成のはじまりに、華々しくテレビ界から転身して政治家となった。
二世、三世ばかりの政界で、たとえ政権交代があろうとも、沈むことなく生き抜いた。
「権力と寝る女」、「政界渡り鳥」と揶揄(やゆ)されながらも、常に党首や総理と呼ばれる人の傍(かたわ)らに、その身を置いてきた。権力者は入れ替わる。けれど、彼女は入れ替わらない。そんな例を他に知らない。
男の為政者に引き立てられて位を極め、さらには男社会を敵に見立てて、階段を上っていった。女性初の総理候補者として、何度も名を取り上げられている。
ここまで権力を求め、権力を手にした女は、過去にいない。なぜ、彼女にだけ、それが可能だったのか。
おそらく彼女には、人を惹きつける何かがあるのだろう。権力者に好かれ、大衆に慕われる何かが。
選挙での言葉は力強く、熱を帯び、人々を興奮させる。芝居がかった所作や過剰な表現。ひどく饒舌(じょうぜつ)で耳触りの良い演説。「敵」を作り出して戦う姿勢を見せながら、他者から共感を引き出していく手法。
二〇一六年夏の選挙をめぐる狂騒を、私は主にテレビを通じて見ていたが、未だに記憶に残り忘れられない場面がある。彼女が対抗馬の鳥越俊太郎を街頭演説で、「病み上がりの人」と言ったのだ。それは明らかな失言であるとされ、何度かテレビでも流された。だが、私が忘れられずにいるのは、その後の彼女の振る舞いである。
テレビ番組の討論会で顔を合わせると、鳥越は彼女に激しく食ってかかった。
「私のことを『病み上がりの人』と言いましたねっ」
彼女はどう詫び、どう切り抜けるつもりなのか。私はそれを知りたいと思い、次の瞬間を見逃すまいとした。
彼女はおもむろに口を開いた。だが、それは私の、まったく想像し得ない答えだった。
「いいえ、言ってませんねえ」
テレビを通じて、おそらくは何十万、何百万の人が「病み上がりの人」と彼女が口にするのを見ていたはずである。それでも、「言ってない」という。
「言ってないって、証拠だって」
鳥越のほうが取り乱し、声が裏返ってしまっていた。
私はこの短いやり取りが、選挙後も長く忘れられなかった。
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