医学部に通うほど優秀だった姉に、統合失調症の症状が現れて突然叫びだした。医師で研究者の両親は、そんな姉を「問題ない」と医療から遠ざけ、南京錠をかけて家に閉じ込めた――。

 藤野知明監督による映画『どうすればよかったか?』は、20年にわたり自身の家族にカメラを向け続けた作品だ。2024年12月に公開されるとすぐに口コミで大きな話題を呼び、動員数は16万人を突破。ドキュメンタリー映画として異例のヒットを記録した。

 ここでは、映画に入れるのを断念したショッキングな事実も含め、藤野監督自身が率直に綴った著書『どうすればよかったか?』より一部を抜粋して紹介する。姉に発作が起きて間もない頃、当時学生だった監督が耳にした、今も忘れることのできない衝撃的な両親の言葉とは。(全4回の1回目/続きを読む

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自宅の庭にいる姉と私。姉のものだったスヌーピーのぬいぐるみを私が気に入って、もらってしまった。 ©2024動画工房ぞうしま

アインシュタインの判断

 物理が大好きだった私にとって、アインシュタインはヒーローでした。しかし、学校の図書館で借りた伝記を読んでいると、気になるエピソードが出てきました。

 アインシュタインの次男が統合失調症を患っていたのです。けれどもアインシュタインは妻と離婚し、再婚後にドイツからアメリカへ移住したとあり、次男とは二度と会うことはなかったと書かれていました。アインシュタインは仕事を優先し、家族のことを顧みませんでした。私はその行動にアインシュタインの別の一面を感じました。

 この頃、私は父に、姉の状況を考えて仕事をやめて札幌に戻るように懇願したことがありました。しかし父は私の考えを聞いてはくれず、父は定年まで勤めました。

 同様に、図書館で借りたダフィット・ヒルベルトというドイツの数学者の伝記を読んでいた時、ヒルベルトの子供を精神病の診療所に連れて行った後、「これからは私には息子がないものと考えなければならない」と語ったとされる記述を見つけ、驚き、怒りを感じました。

 こうしたことから、私は子供の頃から憧れていた「研究者」に懐疑的になりました。両親に対しても、どんなに医師や研究者として立派なことを言っていても、目の前の姉に何もしない人、できない人という目で見るようになりました。

「姉さんが“精神”なら、お前もか?」

 高校3年生の時、第1志望の大学は筑波大学でした。都市計画など建築分野の計算は苦にならなかったので、「ここで都市計画を学ぼう。そしてチャンスがあればアニメーターになる道を探れたらいいな」と考えていたんです。ところが受験に失敗した。

 学科試験とデッサン、そして面接があったのですが、一番まずかったのは面接でした。詳しくは覚えていませんが、常にイライラしていて精神状態がよくなかった私は、面接官を否定するようなことを言ってしまったんです。面接官の顔色が如実に変わって「しくじった」と気づきましたが、後の祭り。

 浪人をすることになっても、とにかく家を出ようとする気持ちは変わらず、勉強の合間には高校時代にも増して映画館へ通うようになっていました。けれどまた志望校を決める段になってみると、父が単身赴任で不在だったので、家に母と姉だけを残しておくのは心配でした。それで結局、志望校を変えて地元の北海道大学へ進みました。

 けれども家にいれば常に姉に関する何かが起こり、しかも明快な解決には向かわない。モヤモヤして講義どころではない。そのせいで英語の単位を落としてしまい、担当教官が「なんでこんなに簡単な事ができないんだ。受験英語より易しいぞ」と注意してきました。

 私は教官が気にかけてくれていると思い、家の話をした。するとその人は、

「姉さんが“精神(障がい)”なら、お前もか?」

 と言いました。その時以降、家のことを他人に相談するのをためらうようになりました。

 教官に言われるまでもなく、自分でも心配していました。誰にも言っていませんでしたが、統合失調症にならないことが私の人生の目標になっていました。姉が苦しんでいるように見えたので、自分も同じように苦しむことはなんとか避けたいと思った。

 具体的にどうすればよいかはわかりませんでしたが、統合失調症になるのは若い世代だと言われていたので、発症しないまま早く30代、40代になりたいと願っていました。

 当時聴いていたレコードのジャケット写真で見たギリシャの音楽家・ヴァンゲリスは、長髪に長い髭をたくわえ、哲学者のように泰然と落ち着いた顔つきをしていた。自分も早くそうなりたいと思っていました。

ボート部で“外部”を見る

 大学生活は教養課程を3回、4年生を2回、計7年送ることになりました。サークルはボート部に入ったんです。当時、映画やアニメを観ていて、その世界への憧れも強かった。そんな折に雑誌「アニメージュ」を眺めていたら、アニメも映画も団体で作るものであると、今では自明のことに気がついたんです。絵を描いたり、折り紙をしたりといった個人作業が好きだった私は、一度集団に入って身体を動かそうと思い立った。

 ボート部ではコックス(舵取りやクルーへの指示を専門とするポジション)でした。初めの半年は漕手をやってからの転向。単位を落としすぎて2年半で退部することになりましたが、部活動は本当に楽しかったです。ボートなので雨の日も関係なく練習します。川辺でぼーっとして日がな過ごしたり、よい思い出ばかりです。

 合宿が多くて家から離れられたのも精神的によかった。家から20キロも離れたところにある石狩川の合宿所まで、自転車で向かっていました。朝5時に練習が始まるから真夜中の3時に出かけ、小屋に寝泊まりしていました。

 雨の日の試合は感動しました。周囲が雨に煙る中、スーッとボートが水面を蹴って進んでくる。そういう視覚的な力に心打たれました。普段、雨の日は足元しか見ていなかったけど、こういう風景があったのか、と。姉や両親のいる家ではない“外部”を見たのはよかったと思います。

 ちょうどこの頃に家族で撮った記念写真があります。父の還暦祝いで、赤いちゃんちゃんこを着た父、母、姉、私が食卓を囲んでいる写真(本書のカバーに使用している写真)です。父がセルフタイマーで撮ったもので、母はカメラを見て微笑んでいる。

©2024動画工房ぞうしま

 姉も反射的にカメラの方を見ている。私はカメラの方すら見ずに、ご飯を食べるふりをして下を向いています。

 姉に対して両親が行っていることに同意できない部分があったので、幸せな家族を装うように、カメラを見てにっこり笑うことを拒否していたんです。家族と一緒にいたくない、家にいたくないという一心でした。

「青春がなかったですね」

 ごく短期間でしたが、姉が家を出て一人暮らしをした時期がありました。そこは大学に近い「◯◯荘」という名の学生下宿で、姉は「パパの名前に似てる」という理由で決めたようです。やっぱり父への尊敬の念は大きいのですが、家から離れてのびのび暮らす機会を姉は手に入れたんです。私がボート部の活動で家から離れがちだったのと同様に、姉も両親と距離を置き、両親の影響を受けない生活を選ぼうと姉なりに考えていたのかもしれない。

 一人暮らしをしていたこの時期、どのような生活を送っていたかはわかりませんが、姉は正しい判断をしたと思いました。なぜならこの時が、自分の精神的な危機を改善できる最大のチャンスだったからです。急性症状が出た後、妄想は続いていましたが、せっかく家を出たのだから家族が関わらないほうがいいと考え、私は姉を応援する気持ちで下宿にはあえて近づかないようにしていました。

 けれど、よせばいいのに母が毎日仕事帰りに立ち寄るようになった。そして原因はわかりませんが、半年後に姉は家に戻ってきてしまいました。

 姉が家を出るといえば、時期が判然としないのですが、姉と結婚したいと申し出る人が現れたことがありました。結婚を望んでいる本人も姉の病気のことは承知の上だった。だけど「結婚は無理だろう」と引きとってもらったと母から聞いたことがあります。

 あとは、最初の発症から2年後だったと思いますが、姉が急にいなくなってしまったこともありました。

「お姉さんが玄関先に立ったまま、動こうとしないので困っている」

 ある男性からこのような電話を受けたんです。姉は好意を持っていた男性を追いかけて家まで行ってしまったらしい。結果、警察に保護されたというので迎えに行きました。姉に関する恋愛絡みと言えるようなエピソードとして思い出すのはこの2つの出来事です。

1990年頃。大学卒業後に母の研究室で研究生をしていた時か。 ©2024動画工房ぞうしま

 姉のいない食卓で、母が父に「(姉には)青春がなかったですね」と漏らしたことがありました。すると父が首を振って「そんなこと言っちゃいけない」と言った。

 聞いていた私は表面上は何の反応も示しませんでしたが、この両親のやりとりに大きな衝撃を受けました。母が「青春」という言葉を用いたことで、姉の人生のある時期に何らかの大きな損失があったように感じられたのです。この時のことは、何十年経っても忘れられません。

「できなきゃだめだ」「病院に叩き込んでやるぞ」約30分続いた大声、姉はどんな気持ちだったのか…弟が“統合失調症の姉の記録”を初めて残した日〉へ続く