夫婦別姓、まだなん!? 3度目の結婚を前に漫画家・鳥飼茜が直面した「今世紀最大の理不尽」〉から続く

 3度目の結婚を前に、姓の変更をめぐる理不尽に直面した漫画家・鳥飼茜さん。改姓のたびに発生する煩雑な手続き。「選択的夫婦別姓」制度が実現してくれていれば、こんなことにはならなかったのに……。姓に翻弄される半生と結婚の傘のもとでの男女の力学が綴られたエッセイ『今世紀最大の理不尽 それでも、結婚がしたかった』より、年下の新しいパートナーとの対話から見えてきた考察が書かれた箇所を、一部抜粋して公開します。

 同世代の男性との関係で繰り返されてきた摩擦や対立が、なぜこの関係では生じにくいのか? その理由をたどると、「同世代の男女は同じ世界を見ている」という前提そのものが間違っていたことが見えてきた。

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同世代の男性と付き合うことがフェアだと思っていた

 冒頭からお話ししている通りに私は3度めの結婚を企てている。

 相手とは、付き合って3年ほど経つ。めちゃくちゃ普通の会社員である。

 簡潔にいうとそれだけの人なのだが、この3年間の間に、あらゆる気づきをくれ、あらゆる解放を手助けし、今こうして自分が自分の出来事を文字にできているのは彼のおかげだ。

 たった一人の人にここまでポジティブな変身を促されたことを思うと、とてつもない人物だと再認識せざる得ない。

 じつは私と彼とは、結構な歳の差がある。私の方が年上で、そしてそれはあまり人前では言いにくかった事実だ。

 年の差恋愛を生理的に嫌がる人もいるだろうし、わざわざ言うようなことでもないだろ、と思う気持ちは私にもあるにはあるが、ちょっと聞いてほしい。

 なぜなら、ここまでの人生でずっと男性との間で繰り返してきた摩擦が今の関係では不思議なほど影もなくなり、それこそデザートとは言わないが、白ごはんと味噌汁のように当然のような平穏さの中で過ごせているのが、もしかしたら年齢差が一つの要因でもあるかもしれないからだ。

クリムト『接吻』。12歳年下のパートナーを描いたと言われている。クリムトのように男性年上の年齢差カップルは大昔から多いものだが、現代ならば逆の構図も描かれるだろうか?Gustav Klimt, Public domain, via Wikimedia Commons

 これまで付き合ってきた男性は全員が同世代だった。

 開いても3歳差。明快に理由があって、その方がフェアだと思っていたからだ。

 そもそも男女は非対称な部分が多くて、私は少なくともプライベートな場での公平を望んでいたと思う。

 その思いで、なるだけカップル間の地面を(なら)したかった。同じ年齢の地面に立ち、同じものを見てきただけ、その分公平さが増えるものだと思っていた。

 私は公立の共学育ちで、だから同い年の男の子たちとずっと肩を並べて、同じことを教わり、大きくなった。

 だから純粋に、自分が男女同等の権利を願う、その思いは同じだけ、同じ年頃の男の子たちにもあるとばかり、思ってきたのだ。

『今世紀最大の理不尽 それでも、結婚がしたかった』(文藝春秋)

なぜ一つ屋根の下に入ると男女の間に上下の勾配ができるのか?

 大人になる過程で、色々な男の子と付き合い、色々な場面で対立した。一番不思議だったのは、一つの屋根の下に入ると私たちに上下の勾配ができることだった。

 私が、当たり前のように女性の権利や不遇を話すと、明確に嫌がる人がほとんどだった。男を敵対視してる、「俺に謝れって言うの?」と詰られることが何度もあった。

 親戚同士の宴席で女ばかりが働かされたのを嘆くと、「そうやって女性が男性を上手に支えて日本の家は回ってきたのだから、文句を言わないで習慣に習ってほしい」と言った人がいた。

 ドラマで性暴力に遭った女性キャラクターに、「そんな短いホットパンツで来ておいて被害者ヅラはひどくない?」と笑いながら私に同意を求めた人がいた。

 自分の遭ったレイプ被害を気丈にも告発した人にテレビの前で賛辞を述べると、「被害をネタにすれば一生食いっぱぐれないもんね」と言い放った人がいた。

 おじさんではなく皆、私と3歳も違わない同世代男性だ。

(ということは、みんなおじさんだということに気づいてハッとした。しかしおじさんおばさんがもう少し若かった時の話である。)

 私は不思議だった。同じものを学び、同じ理想を持っているはずの同世代の異性が、どうしてこんなにも理解できないことを言うのだろうと。

エドゥアール・マネの「フォリー・ベルジェールのバー」 バーのカウンターに立つ女性。背景の鏡に映る彼女の背後には彼女に話しかける男性が描かれるが、視線は交わらない Édouard Manet, Public domain, via Wikimedia Commons

 考えてみれば簡単な仕掛けだった。

 私たちは同じ学校教育を受けたが、帰っていく家がそもそも違う。家の中で誰のどんな姿や振る舞いから何を学び、何を期待されたかも大いに違ったはずだ。

 家の外で、仲間内や、あるいは目にする漫画やアニメやテレビから、どんなメッセージを受け取るかも、まったく違う。

 一人一人の個人差というよりも、そもそもが「男」に属した者の目に映る世界と、「女」に属する者の目に映る世界がまるで違ったのだということに、後になって気づいた。

 特に女性として社会で男性から受ける理不尽に対しては、同じ女同士が理解を連帯するのとは真反対の立場に、彼らは身を置いてきたわけである。

 一つの事件の逆サイドの立場として、私たちは同時代を過ごしてきたまでなのだ。

パートナーとの対話の中で気づかされたことーー異世代コミュニケーションのススメ

 そのことに気づいたのは、私よりずっと年下の、今のパートナーと話すようになってからだ。

 彼は私が話す男女間の非対称や、私の視点について、敵対心を持つことがない。

 同時代の反対側の立場にいないから、反射的に反感を持つことがあまりないのかもしれない。

 もしかしたら、まるで自分が加害者側と言われてるような不信感がない代わりに、同じ事件の当事者である感覚は薄いかもしれない。

 そういう意味では対等と言いきれない部分が確かにあるけど、あきらかな矛盾や違和感があれば彼はもちろん指摘もするし、私以外の視点から自分の納得できる情報を得ようともする。  

 経験がどうしても上回る自分は、彼との関係性に当然慎重にならなくてはいけない。言い負かしたり言いくるめたりしてしまわないように、とにかく気をつける必要がある。正直言えば、付き合い出した当初はそれで何度か彼を傷つけてしまったと思う。

 力はなくても経験や知識で、人は人の上に立ってしまうことがよくわかった。あんなにも配偶者からの抑圧に苦しんだはずの自分が、年下の相手を今度は仕返しのように抑圧していることに何回も愕然とした。反省と話し合いは何度やっても終わることがない。何かで相手より上にあることは、自分が思った以上に危うさと隣り合わせだと今は理解している。

 それでも、ただ自分が信じていることを否定せずに聞いてもらえるだけで、人間はこんなにも安心と平和を感じられるのか、と感動が止まらなかった。

和やかに話す男女 ©Unsplash

 もちろんこんなことは言うまでもないことだが、存分に話し合える関係に年齢の縛りなど本来はないはずだ。逆に言えば年がある程度下だからといって全ての男性が女性の嘆きを受け止めてくれるわけもない。

 単純に、私が大人になるまでに生きた時代に、同世代の男性なら私とは反対の立場として時代から受け取ったであろう何かを、彼らは受け取っていない、というだけの話だ。生まれた時代が違うということに明確な差があるとしたら、そういうことでしかない。時代から受け取ったものはお荷物かはたまた恩恵か。それをどうするかは、それぞれの個人の裁量によるのだから。

 私は彼といるとなんでも喋る。自分の倫理道徳に反すること以外、なんでもだ。なんでも喋れるって素晴らしい。衝突を恐れるあまり今日食べた昼ごはんと明日の天気の話しかできなかった結婚時代がなつかしい。

 なんでも話せるからこそ、相手を傷つけないための善良さを求めて人は努力をするのだろう。平和はどちらか一方だけが享受できるものではなくて、双方向的でなければいけない。誰もがなんでも話せる場所にだけ、平和はある。