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今世紀最大の理不尽「今日から法律が変わりました」 第2回

今世紀最大の理不尽「今日から法律が変わりました」 第2回

鳥飼 茜

文學界 2025年8月号

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #随筆・エッセイ

「今日から法律が変わりました」!? 再々婚を目前に、姓に翻弄される漫画家が体験する“今世紀最大の理不尽”〉から続く

 結婚して変えた苗字は、離婚時に旧姓に戻すかそのまま称するかを選ぶ。離婚後2ヶ月以降は苗字を変更することができないため、家庭裁判所にその旨を申し立て、裁判官による審理を受けなければならないーー再々婚を目前として、旧姓に戻そうと審判確定証明書を携えて区役所に行った。そこで告げられたのは、「今日から法律が変わりました」。

 今年、衆議院法務委員会で28年ぶりに選択的夫婦別姓の審議がされた。姓に翻弄される著者の、渾身のロングエッセイ。

(これは文學界8月号に掲載された本文の、短縮版です)

文學界8月号

◆◆◆

なぜ結婚した時、男性の苗字になったのか 

 これまでに2回結婚したが、2回とも、相手との間に私の苗字になろうなんていう話は出たことがなかった。事実婚か、法律婚かの二択はあったが、相手の男性が、私の苗字に変えようかという発想をするのを見ることがなかった。

 自分が、させなかったのだ。まさかそんなことをさせるわけにいかないとまで思っていた。

 夫たちに、女のお前が俺の苗字に合わせるべきだとも、合わせてくださいお願いしますとも、言われてはいない。

 ただそういうものだと、私が進んで引き受けたことだ。その時相手側も、そういうものだと特に動揺することもなく受け入れていた。世の中のほとんどの家がそうなっているように。

 もちろん私の苗字が奇抜だったり、離婚後も元夫の苗字を名乗っていたりと、事情はあった。でも。

 私が自分の苗字をまあまあ好きだったら、相手にそのように変えてくれ、と言っただろうか?

「当たり前」を超えてまで、相手に自分の「ありのまま」に合わせて欲しいと私はきっと言えなかっただろう。その当時、相手を説得できる力もなかっただろう。

 知り合いには何人か、夫側が苗字を妻側に変えた人がいて、だからそれを私は実は羨ましく思っていた。

 今まで受けていた抑圧や理不尽を、立場を反転させ、肩代わりしてくださいと望むのは差別問題においてすごく慎重にならないといけない態度だと思う。そんな押し付け合いでは根本の解決には到底、ならないからだ。 そう思いつつ、これまでのことがあって、その上で男性が一旦逆の姿を見せてくれることに、癒しを感じてしまうのも事実である。

なぜ私は2度も結婚から撤退したのか

 相手の生来の苗字に変えること、それはただ名義変更がめちゃくちゃ面倒なだけで、他に何の意味も持たないことだと思っていた。

 だからこそ離婚した後も私は苗字を変えなかった。

 なぜ私は2度も結婚から撤退したのか?

 当然のように人は問うてくる。

 一生を誓うほどの相手なのに、なぜ離婚するの? と。

 その問いの答えは、「誓った時と状況が変わったから」だ。

 相手にもよる、子供の有無や環境にもよる、それは当然なんだけど、自分だけがわかる事実として、自分が結婚前のような自由さを失ったということがある。

 結婚したらある程度自由を失うのは男女共通でしょ、そう思う。ただ少なくとも私は、結婚が始まった瞬間から、自分にも説明のつかない「へりくだり」が起動した感覚がある。

 その日から始まる、夫の実家とのつながり。

 結婚相手を育てたご両親や兄弟に、リスペクトを抱くのは良いことだ。私は、苗字を相手に合わせることで生じた、なんかそれ以上の余計なものについての話をしている。

 大袈裟に言えばその気持ちは、「新しく旦那様のご実家である〇〇家の仲間にならせていただきます、皆さんにお気に召されるよう、頑張ります!」といったところだ。

鳥飼茜さん

 前述のように私は律儀すぎるタイプなので、人によっては苗字を変えてもこんな意味のわからないへりくだりを発動させずに、対等でいる奥様もいらっしゃるでしょう。そういう人をなんの嫌味でもなく心から羨ましいと思う。自分は、ダメだった。形式や、ニュアンスや、言外のイメージにめっぽう弱かった。

 結婚して相手の苗字になることで、私は自分でも気づかないまま、自分から「ハイよろこんで~!」と元気よく従属しに行ったのである。

 誰もそれを私に直接要求していない。強要されてもない。誰かに選ばれた、という称号と引き換えの自己責任。私はもっと、慎重になるべきだったのだ。「当たり前」が自分を知らぬうちに運んでいく先の、イメージの世界の強力さに。

 今度こそ私は失敗できない。

 当然2人の間のことだから、お別れの未来もあり得るとは思ってる。だからこそ、自分の外からやってくる謎の魔力にだけは、つぎこそ屈したくない。

 そんな思いを語り合って、今の相手とは「別姓婚」を待つまでの間の、「事実婚」にしようじゃないかと結論が出た。

 最良と言えるのかわからないが、妥当だと感じた。

 長かった。ようやく自分らしい結婚に近づけた気がした。そうと決まれば、いよいよあれの出番だった。

 あれとはそう、2年放置していた、氏の変更許可申立事件「審判確定証明書」である。

「今日から法律が変わりまして……」

 2025年5月の終わりの、あかるい曇天の午前11時すぎ。私は目黒区役所にいた。

 私は事前に調べておいた、氏名変更に必要な書類一式を肩掛けカバンに詰め込み、この後の手続きを今一度思い返していた。

 年金手帳、住民票の写し、身分証明書そして飼い犬の登録済み鑑札。今度は完璧。

 戸籍課に家裁から授与された紙ペラを提出するだけではいけないことを道中で知り、前の週末の金曜に来庁を断念していた私は、今日こそと気を取り直して意気揚々とまずは戸籍課に向かった。

 順番の番号が呼ばれ、窓口の女性に今日来た目的を伝える。

「離婚する前に使っていた苗字に戻したいのです」

 そう言うと裁判所の許可が記された証明書を求められ、伝家の宝刀のように私はその紙を差し出した。

 発行されてかなりの月日が経っていることを、すっかり黄ばんでしまった藁半紙の許可書が示している。許可が出てから2年が経ってしまったことだけが気がかりだったものの、そこに使用期限の記載は無い。 

 差し出した書類の変色に一瞬たじろいだように見えた女性職員の表情にこちらが怯んだが、絶対大丈夫、と自分を奮い立たせ次の一言を待っていると、彼女は凄く言いにくそうというか、私が全く想像していなかったような、辛そうな顔をしてこのように言った。

「大変申し上げにくいのですが
今日から法律が変わりまして
この書類は受け付けられません……」

 今日から法律が変わった。

 言ってることの一分もわからず、「ん??」とだけ返すと、職員さんが補足説明を始めた。

 本当に、今日から、戸籍の法律が変わりまして、戸籍にふりがなの記載が義務付けられました。この書類は、その前に作られたものなので、ふりがなについての記載が無いんです。 だから、この書類だと氏名変更は出来ないんです。

 ほんとに、今日からダメになったんです……

 それなので、大変お手数ではあるんですが、家庭裁判所にもう一度氏の変更の申し立てをしてもらって、今度は新しくふりがなの記載のある許可書を持ってきていただくことに、なってしまうと思います……

 本当に、今日からそういうことになってしまって……

 ふりがな???

 昨日までは要らなかったふりがなが、今日から要るようになった?? 何が出来るか、何をすべきなのか、少しでも解に近づかなくてはと区役所のエレベーターホールで家庭裁判所の電話番号を検索し、そのまま電話をかける。ほどなくして電話が繋がる。私は昂る気持ちを抑えるようになるべく冷静に、しかしこの理不尽に少しでも理解を得たい一心でことの顛末を語り上げる。瞳孔が開き夢中で喋る私に、電話口の家裁職員がとりあえず担当窓口に繋ぎますねーと冷や水をぶっかけてくる。

 携帯を耳にエレベーターで屋上に向かいながら、家裁の担当窓口に回された私はまた頭から同じ説明を始める。

 虚しかった。どんなに理不尽を訴えたところで、私は結局一から申し立てを求められるだろう。もう一度、いまさらながら離婚前の苗字に戻さなければと公人たちが納得せざるを得ない陳情書を書き上げ、証拠の書類をかき集めて添付して、2ヶ月の審議をただ待つしかないんだろう。

 今日から法律が変わったのだから。

やっぱり法律に認められた結婚がしたい

 目黒区役所の屋上は昔のデパートの屋上みたいだった。植え込みが施され、児童公園のような遊具が何個か置かれている。曇り空の下にはただただ住宅が広がり、すばらしい眺望と言えるほどでもない。私は人のいない子供用の真っ赤な滑り台に腰掛け、電話口の家裁の人の言うことを聞いている。

 ふりだしにもどった。

 もういっそ、彼氏の苗字に変えてしまうのがこの際一番手っ取り早いのだった。

 そうすればややこしい家裁なんかに頼ることなく今の苗字から脱け出せる。

 どうせこの後あらゆる名義変更が控えているんだから、それが前の前の夫の苗字でも、新しい夫の苗字でも同じ手間ではないか。

 事実婚は結局のところ自分たち以外の認識を動かすことは難しくて、例えば一刻を争うときに事実婚なんですという事情をどれほどの人が汲んでくれるのか、わからない怖さがある。

 やっぱり法律に認められた結婚がしたい。

 また名義変えをしなくてもいいように末長く仲良くいればいいし、懸念していた相手一家へのへりくだり案件については、今の相手との間柄からして、その心配は今度こそないんじゃないかと思われる。

 それにきっと、彼の両親も喜ぶだろう。

 私はどの結婚の時も、毎回義理の両親のことが好きだったし、気に入られたかった。

 法律のもとで結婚して、3度目の正直で新しい夫の苗字になることが、一番安泰で平穏。そう思われた。

 滑り台の上で彼氏に電話をかけた。仕事中に私用電話で申し訳ないと思ったが、そうでもしないといられなかった。今日から変わった法律を前に躓いた私を精一杯慰めてくれるつもりっぽかった彼氏に私は次第に怒りをぶつけ出した。

「前の前の旦那さんの苗字になるのはダメなの?」再々婚を目前に、姓に翻弄される漫画家が体験する“今世紀最大の理不尽”〉へ続く

雑誌・ムック・臨時増刊
文學界 2025年8月号
文學界編集部

定価:1,200円(税込)発売日:2025年07月07日

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