
〈なぜ私は2度も結婚から撤退したのか…再々婚を目前に、姓に翻弄される漫画家が体験する“今世紀最大の理不尽”〉から続く
結婚して変えた苗字は、離婚時に旧姓に戻すかそのまま称するかを選ぶ。離婚後2ヶ月以降は苗字を変更することができないため、家庭裁判所にその旨を申し立て、裁判官による審理を受けなければならないーー再々婚を目前として、旧姓に戻そうと審判確定証明書を携えて区役所に行った。そこで告げられたのは、「今日から法律が変わりました」。
今年、衆議院法務委員会で28年ぶりに選択的夫婦別姓の審議がされた。姓に翻弄される著者の、渾身のロングエッセイ。
(これは文學界8月号に掲載された本文の、短縮版です)

◆◆◆
今日から法律変わりましたって、なんやねん。
ほんとは、色々考えて結局あなたの苗字になろうかと思う、と言うつもりだった。
用意してたのは、なかなか甘い言葉だった。
なのに口をついて出るのは、誰にともつかない、怒りだった。
また私は、同じ線路に乗せられているやん。なぜあなたはそれを止めようとしてくれないのか。
結婚して苗字を変えるなら、俺に出来ることはなんでも手伝うよって言うけど、俺に出来ることってなんやねん。結婚する時も離婚した時も、必死に走り回って区役所で泣いているのは私だけやねん。こんな珍事に泣いたり笑ったり、くだらないわちゃわちゃを繰り広げてるなんて、夫だった人たちは知る由もなく、こんな法律のマイナーチェンジに煩わされることもなく、てかそもそも名義変更とかいうクソめんどいオプションが存在しない世界を今日も縦横無尽、自由に生きてはるねん。
それが、男の人にとっての、結婚でしょう。国の法律に、ガチガチに守られた結婚でしょうが。
今日から法律変わりましたって、なんやねん。
そんなマイナーチェンジをする前に、もう20年くらい目の前にぶら下げてる選択的夫婦別姓を許可してくれ。法律を変えるならそっちを先にやってくれ。今日法律が変わったせいで、また私は、自分が夫の苗字になる方が楽やと思わされた、そうかそういうこと?! これが国の魂胆ならすごい! あっぱれ!!
完全に異常者の様相で、私はこれらの暴言を吐きながら、灰色の空の下、まっ赤な滑り台の上で膝を抱えて号泣していた。
もう、私は嫌なんやと思った。
法律や国なんていう大きすぎる壁は、歯向かうよりは後ろ盾にする方が絶対楽で得で、そのために、男の人の傘下に入ること、自分も女としてそれを望んできたと、そう自分に思い込ませ、それを相手の男性に、これこそが私の幸せで、希望なんです、と甘い言葉でつたえること。
私は40過ぎて、2回も結婚を失敗して、やっとそれがもう嫌なんやと、心が拒絶したんやと、法律が少しだけ変わったその日、思い知った。
事実婚か、法律婚か。自分の中ではなかなか決着がつかないでいた。
法律婚は考えれば考えるほど、女性の自分が自分らしくあることの妨げになる可能性を孕んでいると思えてしまう。自分らしくありながら、誰かと生きていく約束をするなら、法律婚を諦め一部の制度を受けられないことくらい我慢すべきなのか。
自分を捻じ曲げたくない、自分らしくありたい、という切望は自分の中でこれまでになく高まっていた。どちらにせよ、いま現在の苗字の変更を済ませることが小さいながらも唯一の一歩だった。
犬の散歩を早めに済ませ、まず本籍のある窓口出張所へ戸籍謄本を取りに行った。
その足で普段なら絶対乗らない首都高を走らせ、霞ヶ関の家庭裁判所へ向かった。
入口の荷物検査を終え案内された民事の窓口へいくとちょうどお昼休憩で職員はおらず、1時から始まる午後の部の整理券が機械で発行された。
私も整理券を手に、お昼がまだなので地下にある食堂へと向かった。
定食を注文し、少し待たされた割に冷たく異常に歯応えがある白身肉を齧りながら、私は携帯を出してLINEを開いた。
昨日からの絶望的な出来事を「聞いてよ」とやりとりしていた、小説家の金原ひとみさんの返信を読むためだ。
金原さんとは知り合って1年ほどになるだろうか。意気投合したのには端的に彼女の人当たりの良さと、お互いの境遇に共感するところが多かったこともある。
私の一連の理不尽を、異常に語彙力の高い女子高生の親友、みたいなテンションで同情し、怒ってくれていた。

「前の前の旦那さんの苗字になるのはダメなの?」
金原さんは少し前に再婚したばかりだ。新しい旦那さんは、金原さんの苗字になることをえらんだ。
「私は正直、夫が妻の苗字に変えた夫婦を羨ましく思っちゃう」
この件で、なかなか妥当な解に至らず疲れてきた私の本音が漏れる。
「彼氏さんも鳥飼さんの前の前の旦那さんの苗字になるっていうのはダメなの?」
いやそれはさすがに変かなって。条件反射のようにそう打とうとした私はスマホを一旦置いた。
異様に固くひんやりした揚げ物を齧りながら、その文字列をもう一度目で追ってみる。
「さすがに変だと思う…」
惰性でそう答えたものの、私の頭の中は金原さんの投げかけにどんどんフォーカスしていった。
それはつまり、今私が裁判所で申し立てしなおしてきた、Oという苗字になるということである。
それは元々は、私の1番目の夫の苗字だ。
昔の夫の苗字に彼が連なるというイメージが、いやそれどうしても変だろ、と突発的に思わせる。
しかし、である。
私が今まさにOという苗字を欲しているのは、そこにもはや最初の夫の影が無いからなんである。あるのは私の生んだひとり息子の苗字がOであるという都合だけだ。
テクニカルに言えば、一度抜けて別の籍に入り、更にまた取得したそのOの名には戸籍上の記載事項がゼロになるはずだった。
離婚して15年が経とうとしている。長い時間が記憶や感情を風化したのかもしれない。
子供がいるので、学校のことや事故やけが、そして進路など、離婚後は自分たちの私情を挟まず取り組む事柄だけが淡々と積み重なったからかも知れない。
それに加えて、先述した通り、人と人には相性があって、私にとって最初の夫というのはもはや、子の父という理由で長生きして欲しいと願える純粋な生命体となり、一緒にいる事情が消滅しても、これといって負の印象も正の印象も残さないちょっと特殊な相手だった。
だからこそ今の相手と事実婚の場合、私はこの苗字が妥当だと思ったのだし、そこにちょっとでも前々夫に対するロマンチックな感情とかメランコリーがあっては成立し得ない話なのである。
そこさえ彼に理解してもらえたなら、この話は案外無くは無いんじゃないか?
どちらの家にも属さない選択肢
一方がちょっと我慢して苗字を変え、相手の「生まれ」に合わせること。それはどちらにとってもやや理不尽で、これまで結論を先送りにしてきた。
苗字を変えた側だけがあらゆる面倒な手続きを一手に引き受け、その相手の家の中に新参として「お邪魔させてもらいます」プレイが始まり、離婚すればまた同じ手続きを一からやり直す。
それが不条理なばかりに、目の前にどんなに妥当な理由があろうと、すんなり相手の苗字になることを、今の自分が、ではなく過去の自分が経験をもとに総出となって私を戒め、拒ませた。
少なくとも必要な労力が同じ量なら?
どちらの家にも属さない選択肢があるならどうだろうか。
これなら私は結果的にとはいえ、結婚ではからずも相手をその人の家という歴史ごと一方的に受け入れ、合わせてきた自分をこれ以上追い詰めないで済むし、彼氏を同じ目に遭わせているのではないかと思い悩むこともない。
これまでにこんな平等な法律婚をした人はいるのだろうか。
さらに面白いことには、自分達が新しく作る戸籍の傘に、自分達より先住の人間がいないのだ。どちらの家族に新規参入願うわけでもない。当然ながら、この苗字を私が得るとっかかりとしての前々夫は、このあたらしい戸籍を構成するメンバーではないわけだから、これはもう、言うなれば名義貸しのようなものだ。
法律で理不尽を被った私は、法律のルールのもとで、法律がたぶん狙ってるであろう結婚、つまり、
どっちかがどっちかの家(てか大抵女が男の家)にお邪魔させてもらい、先輩家族たちに気に入られるよう上手く我慢などして、(大抵は男の)家を繁盛させるように子をたくさん産んで、国の福祉の力には最大限頼らず済むように老いた親世代の世話などし、そうやってまた家を繋げて行ってね~、という結婚――
とはちがって、誰の役にも立たない、法律側からしたら当てはずれ中の当てはずれ婚、になりそうな気配に、勝利を感じて打ち震えていたのだった。
肉を切らせて骨を断つ、的を射てるのかわからない、そんな言葉が頭を通り過ぎた。
法律には老賢人のようなスタンスでいてほしい
これまでの結婚や法律を敵のように感じている癖に、それでもまだ法律に守られて結婚がしたいのだ。ほんとに懲りない奴だ。だから今度こそは、私は私らしさを譲り渡してはいけなかった。自分らしさを譲り渡す恐ろしさを知ったから、相手にそれをさせることもしてはいけなかった。
結婚したり、付き合っていくためには、もちろん相手に合わせる部分が必要だ。
2人がおんなじだけ好きなように生きていては、関係性は続けられない。
だからやっぱり、どちらもが今相手の方が譲りすぎてないかと、いつも気にしないといけないんである。
気にされるの待ちでもだめで、しっかり怖がらずに「そっちももう少し譲ってね」と申し立てないといけない。申し立てられた方は絶対これを無視したらだめで、間違っても「自分の方が譲ってる!」と顔を赤くして申し立て却下などしてはいけない。
苗字を変えても上手くやっている2人はきっとそれができている。私からみたら、人間関係超上級者だ。
私みたいな下手っぴにとって、法律が姓を変えるという自分譲りを奨励してくるのは、結婚の初っ端から2人の関係性にわざわざヒビを入れてくるようで、だいぶ腹立たしいものなのだ。
苗字を変えずにアンタがたの生まれたままでええ、2人が自分らしいまま家族になったらええ、と、法律にはもっとこう堂々と寛容な、老賢人のようなスタンスでいてほしい。ぜひ早々に別姓婚を成立させ、装いも新たにもっと対等なスタートを切らせてくれ、と思う。
そういうわけで、いま手にしているこれは、なんと完璧な折衷的妥当案であろう。もちろん私一人で辿り着いたアイデアではないことも忘れていません、と心の中で金原さんに手刀を切る。
もっとも、姓を変えることになる彼氏本人が賛成確実とも限らないが、きっと話し合って理解しようとしてくれるだろう。
合意に至った場合に唯一彼氏が不利益を被るなら、それは離婚した後に自分の苗字に戻す手続きが待っていることだけだ。
離婚しなければ良いし、最悪そうなった時のために私からできるアドバイスは有る。
印鑑を、今のうちに下の名前に変えておくことだ。
気を取り直して名案に気を良くした私は、ようやく順番が来た青信号で自宅方面に車を走らせた。
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