花街の化粧師ダイの“技”が、人の運命を動かし、やがて王座をめぐる選挙戦の渦へ――。文春文庫から、新たに始まる圧倒的スケールの大河ロマンシリーズ『女王の化粧師1』の冒頭14ページをお届けします。
序章 雷雨の夜
「最初から、決まっていた?」
女は言った。
凍てつく雨の中で、女は微動だにせずにいる。雫が絶えず髪を濡らし、頰を伝った。
唇の血の気は失せ、青紫に変色している。しかし女はその場から動こうとはしなかった。逃げを許さぬ眼差しで、ただ真っ直ぐに目の前の男を見つめていた。
「そう、最初から決まっていたことだった」
男は女の言葉を肯定した。冬の湖水に似た静けさをたたえる瞳からは、男の心中を窺うことはできない。そもそも、この男の本心は、いつも遠くに隔てられていた─たとえば、偽の笑顔の中に。
それを女は知っていた。
「噓」
だからこうやって、糾弾している。
「最初から決まっていたなら、どうしてあなたはやさしかったの?」
「やさしい?」
男は嗤う。嘲りは、男がここに来て初めて晒した感情だった。
「わたしはあなた方に情をかけた覚えは一度もない」
「噓」
「噓ではない」
女は噓だと繰り返した。寒さに強張った唇は、微かに震えただけで、音を紡ぐことは叶わなかった。
優しかったでしょう?
女は思う。男はやさしかった。そのやさしさは、決して表立ったものではなかった。
けれど、やさしかったのだ。
それを知っている。
知っているのに。
男の手が女の首に伸ばされる。男の指が女の肉に食い込んだ。雨は止まない。冷たい雫が、男の頰を滑り落ちる。
遠くで、光が落ち、雷鳴が轟いた。
第一章
化粧筆を、置いた。
「終わりました」
ダイは女に告げて、己の仕事を観察した。
化粧を終えたばかりの芸妓は今日もうつくしい。そのきめ細かな肌にはしっとりした質感の粉を重ねて艶を出し、上瞼には薄紅がかった銀を散らしている。頰へは淡く珊瑚色を広げた。輪郭を濃く縁取ってから丁寧に紅を塗り重ねた唇は、ふっくらとやわらかそうに仕上がっている。きっと、だれもが触れたくなるだろう。
ダイは彼女に手鏡を渡した。どうですか、と、感想を求める。
彼女は磨かれた銀を覗き込むと、満足そうに微笑んだ。
「素敵。ぜったい注目の的だわ、ダイ」
芸妓がダイの頰に音高く口づける。ダイは思わず渋面になった。
「あぁ……紅を塗り直さなきゃいけないじゃないですか」
「あら、ごめんなさぁい」
悪びれることなく、女は笑った。
彼女の行動に我慢ならないと叫ぶのは順番を待っていた女たちだ。
「ちょっと姐さん! もう少し考えて行動しなさいよ! あたしたちずっと待ってるのに!」
「次はあたし! あたしなんだからね!」
「もう、あんたたち、待っていないで顔ぐらい自分でしなさいな!」
「だれでもいいから早く次を決めてくださいよ……」
使った化粧筆の先を布でぬぐいながら、ダイは呆れた顔で呻いた。彼女たちの明るさがあってこその花街だが、姦しすぎるのもいかがなものか。
そのある意味では平和な様子の室内に、女の声とともに剣呑な空気が持ち込まれる。
「邪魔するよ」
声の主は気だるげに戸布を上げて部屋に入った。
彼女は彫りの見事な煙管を手に身体を起こす。豊かに波打つ黒髪、豊満な肢体を持つ彼女は、王都でも一等と名高いこの娼館の女主人だ。
「アスマ?」
アスマはかつてあまたの男を虜にした元娼婦。引退したあとは娼館を営む側に転じて周囲の度肝を抜き、いまではこの王都で三軒もの店を抱えている。花街の娼婦たちの呼称を〝芸妓〟と改めたのもアスマで、その気風と面倒見の良さから、娼館に属する芸妓たちはもちろん、客やはては同業者にいたるまで、だれからも慕われる花街の顔役である。
「悪いね、ダイ」
ダイの後見人でもある女は、ふっと紫煙を吐いて言った。
「ちょっと来ておくれ。あんたにお客さんなんだよ」
部屋の戸口から伸びた腕や、しなだれ掛かる柔らかな身体、漂う甘い香りからの誘い。
「あら、ダイ。エミルたちのお仕事は終わり? じゃあこっちに来なさいよぉ」
「ダイ、ダイ。時間が空いたなら、アタシの部屋に遊びに来て」
「たまにはふたりで遊びましょ。顔だけじゃなくてあっちもかわいがって? ねぇダイ」
「はいはい、すみません、またあとで」
ダイは適当に断りを入れつつ、アスマを追いかけながら思った。
(めずらしいなぁ)
ダイはアスマの館専属の化粧師だった。芸妓たちの肌を整え、美しく化粧をすることが生業だ。
高級芸妓は無論のこと、一夜限りの客を相手にする下級の子らにも化粧を施す。ひと仕事終えた彼女たちの化粧を直し、非番の芸妓たちの肌の手入れに館を回る。それが最も優先すべき役割で、中断させられることは滅多にない。開店したばかりのこの時間に職人を呼び出す阿呆は夜明けまで待たせられるか、日を改めさせられる。
ところが今日は日が落ちて方々に灯が点され、さぁこれからという開店間際の呼び出しだ。たまに職人の欠員を出したほかの娼館から、急ぎの出向の依頼もあるが、それにしてはいつもと様子が異なる。
「ねえアスマ」
ダイは焦れて呼びかけた。
「そろそろ教えてください。だれなんですか、お客さんって」
光量を絞った魔術の灯が足許を照らす廊下はほの暗い。その中を行く主人の足取りは速かった。小柄なダイでは追いかけるのも一苦労だ。
アスマは、彼女の仕事部屋の前で立ち止まった。この館で最も上等な部屋だ。何人たりともアスマの許可なしには立ち入れない。
彼女はようやく口を開いた。
「……お貴族さま、さ」
「おきぞくさま? ……わたしにですか?」
娼館の顧客には貴族も多いが裏方など見向きもしないものだ。
「正確には、お貴族さまのお遣い、といったところだね……失礼。待たせましたね」
軽く叩いた扉を押し開き、アスマが猫撫で声を紡ぐ。本当に上客なのだと、それだけでダイにも充分に理解できた。
男が応接用の長椅子から立ち上がってダイたちに向き直った。
きれいな、男だった。
ダイは思わず部屋の入り口で足を止め、その客人とやらを凝視してしまった。
年の頃は二十前後。優美だが肩幅は広く、均整のとれた体軀をしている。
顔立ちは端正だ。燦々たる金の短い髪に、蒼穹を思わせる澄んだ青の目。女顔負けの、きめ細かな象牙色の肌。貴族の客でもなかなかお目にかかれないような、怜悧な美貌を宿す男だった。
その素顔を、見てみたい。
人の顔を観察してしまうのは仕事柄の習い性だったが、初対面の人間に不躾な視線を向けたのは、自分としても初めてだった。挙げ句、抱いた感想はいささか珍妙だ。
男はダイの視線を訝しく思ったのか、首を小さくかしげている。
「ダイ、こっちにおいで」
男の対面の席へと移動していた、アスマがダイを手招いている。ダイは我に返り、扉を閉じて彼女たちに歩み寄った。
「こちらが?」
「ええ、あたしの館で、最も腕のよい化粧師です」
アスマが男の問いに首肯して、温かな手をダイの背に添えた。
「ダイ、こちらはリヴォート様だ。女王候補に選出されたマリアージュ様のご生家、ミズウィーリ家はわかるかい? そちらのお遣いとして、今日はお越しになっている」
「……女王候補?」
ダイは驚きながらアスマを仰ぎ見た。
「女王選の女王候補?」
「そうだよ」
アスマはダイの反応にさもありなんと頷いた。
「年始に始まった女王選に、ご参加なさっている女王候補さ」
「……その、女王候補のおうちの方が、裏方のわたしにいったい何の用なんですか?」
「仕事の依頼に伺いました」
ダイたちの会話に男が口を差し挟む。
低いがよく通り、耳に馴染む、厳かな声だった。
「あなたを、マリアージュ様の化粧師として迎えたい」
女王に相応しい顔を作って欲しいのだと、男は言った。





