数年前、ある文芸誌の対談で、桐野夏生さんにこんな質問を投げかけてみたことがある。
「桐野さんは、自分の中を通り過ぎていった感情をあんまり小説の中には書いていないような気がする。セーブしているの?」と。
たしか、「死」とか「老い」といったことについて話していた時だったと思う。その時、桐野さんは「セーブしているつもりはないけれど」と前置きした上で、次のように答えてくれた。
「私にとって小説は完全な虚構。ゼロから構築していくもの。だから、自分の感情は出さない」と。
どの作品の、どのページを開いても、私には作者である桐野夏生さん自身の内面が色濃く感じられてきた。たとえ、作家自身が完全に創作世界の裏側に隠れることに成功していたのだとしても、否応なく滲み出てくるもの……唯一無二とも言える、桐野夏生ワールドのにおいが強烈に漂っている。それこそが桐野作品のもつ、最大の魅力であり、現代を生きる多くの読者が魅入られるのも当然、と思ってきた。
だが、一方では、作品にこめられているのが作者の感情そのものであるのかどうか、見えるようでいて、はっきりしない、という不思議な側面もあった。全編、作家の内なる嵐が様々にかたちを変えて描かれているかのようでいて、実は決してそうではない。作者はどこかで、自身が描く物語世界や登場人物たちを突き放している。その徹底した客観性が、かえって物語の熱を増幅させる。そんな書き方がされている。
長らく桐野作品をそのように読んできた私にとって、対談時に聞くことができた桐野さんの言葉はまさに、目からうろこ、であった。
そうか。「虚構」だったのか。
桐野さんは、自身の中を通りすぎた感情の嵐をそのまま物語の中に落としこむような、安易なまねはしなかったのである。
言われてみれば、なるほどと、すべて合点がいく。読み手に迫り、気づけば世界の果ての袋小路の、そのまた先にあるような、謎めいた場所に連れていってくれる桐野作品は、作者が「虚構」を強く意識しながら生み出されたものだったのだ。
長年にわたり、公私ともに親しくしてきたのに。そして、私自身も小説家であるというのに。これまでそんなこともわからずにいたのか、と対談中、自分が恥ずかしくなったことをよく覚えている。
本書には、二〇一六年に発表された『悪い妻』を筆頭に、全六篇の短編が収録されている。最も新しいものが、二〇二三年の『もっと悪い妻』。ブックエンドのごとく、始まりと終わりに「悪い妻」が並ぶという体裁がとられている。
幼い娘を無認可保育園に預け、日に九時間、立ち仕事をして、娘を迎えに行って帰宅すると、もう、くたびれ果てて何もする気がしなくなる。なのに、娘はまとわりついてきてうるさい。思わず怒鳴りつけると、大声で泣きだす。隣室に住む老夫婦は虐待を疑っているらしい。夫はバイトのかたわら、素人に毛が生えたようなロックバンドのボーカルをやっていて、ちっとも家のことに協力してくれない。ライブのMCでは、自分が「悪妻」呼ばわりされ、観客の笑いをとっていると知った。腹がたち、娘の面倒を老夫婦に押しつけて、そのライブを観に行ってみると……という、冒頭の『悪い妻』の千夏。
『もっと悪い妻』の麻耶は、結婚前につきあっていた男との関係を今も続けている。夫は半ば公認で、彼女は夫のことも恋人のことも、娘のことも、飼っている犬のことも心から大切にしたいと思っている。そう思うことで罪の意識から逃れていることは自分でもよくわかっているが、事実そうなのだから、仕方がない。一方で、麻耶は恋人の妻や家族に対しては、複雑な想いを抱いている。それでも、恋人とのひとときに極上の幸福を感じるので、今さらやめることは考えられない。
千夏や麻耶のほかにも、結婚後、退職して家庭におさまったものの、二世帯住宅の階下に住む姑から、子どもはまだか、と遠回しに訊かれ続ける妻が描かれる。夫とはセックスレス。おまけに、どんどん溝が深まっている。そんな中、妻はふと、かつて憎からず思っていた男が、自分に求愛しようとしてくれたことを思い返して、深い後悔の念にかられる(『残念』)。
また、夫が単身赴任先の海外で事故死し、寡婦となって長い妻。彼女は自分がつくづく冷たい妻だった、ということを皮肉をまじえながら回想する(『オールドボーイズ』)。
六作中、二作はそれぞれ、孤独でさびしい中高年の男の視点から描かれている。
妻と離婚し、疎遠になり、娘とは連絡がとれず、独り暮らしをしながらタクシー運転手をしている五十三歳の男は、服のリフォームや靴の修理を行っている店のスタッフで、まだ三十代の女性のことが好きでたまらない。一度だけ個人的に会ってもらって、メールを交換できる仲になったが、最近、まったく返事がこなくなった。店もやめてしまったという。死にたいほどの喪失感に苦しんだ彼は、思わず別れた妻に電話をかけ、切々と辛い気持ちを訴えてしまう(『武蔵野線』)。
妻が、自分と愛犬を遺して、呆気なく死んでしまってから、独りで犬を散歩させてきた男は七十代。自分も犬も年をとり、楽しいことなど何もなくなった。この犬が死んだら、自分も死んでしまおうと思っている。所有する古いモルタルアパートは親が遺してくれたものだが、自分同様、どうにもならないくらい傷んでしまった。住人たちには出ていってもらい、解体後、更地にしてから売却するつもりでいる。だが、なかなか転居先が見つからないというので、未だに住み続けている女が一人。自分同様、老いた、身寄りのない、しかし、いつも身ぎれいにしている犬好きのやさしい女性で、彼女はある時、彼の住まいに手作りの料理を持ってきてくれた(『みなしご』)。
……そして、これらすべての作品は、そのラスト部分で、読者の想像を裏切ってくるのだ。いとも自然に。軽やかに。
誰もが思い描くような、ハートウォーミングな結末は用意されていない。日常の風景が気づけば反転している。読者は胸騒ぎを押し殺しながら、黒い笑いをかみしめるしかなくなる。
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たとえば、暖かなウールの上着やコートを脱いだ時、何かの拍子に袖が裏返しになってしまうことがある。裏にはたいてい、ひんやりと冷たい感触の薄い裏地がついている。寒い中、こんなに冷たいものの中に袖を通していたのか、と思って、少し驚いたりする。
桐野さんの作品はいつも私に、その種の、思いがけない不穏なアイロニーを伴って迫ってくる。冷やかなまなざしがふいに現れて、まごまごしているうちに、とりこまれてしまう。
登場人物すべての、沸点に達した感情の描写の中にも、初めからすでに不穏さが見え隠れしている。それを決して執拗に描こうとせず、桐野さんの筆致はあくまでも淡々としたままだ。
投げやりな気分も、不機嫌な想いも、怒りも諦めも苛立ちも、孤独も絶望も虚無も、すべて否定も肯定もしていない。作者はただ、それらに向かって静かにメスを入れ、描き続けるだけ。
それなのに、いつも何かしらの強いメッセージが伝わってくる。長短編を問わず、メッセージ小説を書いている作家ではないはずなのに(ご本人もそのように断言している)、その魔力には毎回、驚かされる。
桐野さんの手にかかると、悪妻も、ダメ男ダメ夫も、弱気男も浮気女も、等しく愛すべきものになる。読者は時に、笑いをかみ殺しながら人間の深部に触れて、火傷を負ったような気分に陥る。そして、自分が今、この現実の只中を生きていることの意味を突きつけられるのである。
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桐野夏生さんは、性格も作風も文体も、悉く私とは異なる。私はあまり外的な活動をしたがらない、典型的な引きこもり型。片や桐野さんは眩しいほどアクティブで華やか。しかも、作家体力が強靱な方である。
しかし、桐野さんと私は、不思議なほどいつも、肝心なところ……人生においてもっとも重要と言える局面で、完全な一致を見る。多くを語らずとも、感情や感覚、考え方の隅々までを深く理解し合うことができる。
これまで一度として例外はなかった。これからもないだろう。







