『東京最低最悪最高!』『二月に殺して桜に埋める』等で知られる人気漫画家・鳥トマトさんの初小説集『漫画でイけ』が8月21日に刊行されます! 漫画家と編集者の関係性を鋭く描き、文芸誌「文學界」掲載時には大きく話題となった表題作『漫画でイけ』。まずは本作の試し読みをお楽しみください。
絵を描くことそのものには性的な快楽があった。線を引くだけで気持ちがいい。出来上がった顔が自分の好みの人間なのも嬉しい。思うに、これはイカれた共感覚みたいなものなのだ。数字を見たら色が浮かぶ人がいるように、音楽を聴いたら味が浮かぶ人がいるように、私は気持ちのいい線が引けると体が高揚した。
「やっぱエッチなコミックを描く民としては、最低合格ラインは自分の絵で気持ち良くなれるかどうかじゃないかな?」
先輩作家の蛇川さんがディスコードで作業通話をしながらとんでもない独り言をいう。春の生ぬるい風が入ってくる窓を慌てて閉める。私は蛇川さんの描いた線画の女性のパンツの中にレースの線を描きながら「そんなもんですかねぇ」と言う。少女のような顔に成熟した体。蛇川さんの漫画の絵はいつもそんな感じだ。私はパンツの中のレースの構造がわからず、インターネットで下着の写真を検索する。こんな下着、穿いたことないよ。
私はエッチな絵を描くのが苦手だ。だから蛇川さんのアシスタントではいつも背景とか、服の柄とかを描いている。自分の絵で気持ち良くなれるかどうか。そういう意味では、私は不合格だと思う。なにより今となっては、もう線を引くことそのものの快楽すら思い出せなかった。仕事で描く漫画には締め切りがある。そうするともう、一本一本の線の快楽なんかに構っていられなくなる。メチャクチャに線を引き続けて、いつしか私は絵を描いても何も感じなくなっていた。すっかりプロの漫画不感症漫画家だ。
「でも、ツグミちゃんの漫画は『この漫画がスゴい!』にも入ってたし、エッチさは、いらないのかな」
「あー」
蛇川さんに言われてうめき声のような声が出る。「この漫画がスゴい!」は年に一回、漫画有識者がおすすめの漫画を選ぶランキング形式の雑誌で、去年一月に発売された私の漫画はそのオンナ編最下位の四十九位に選ばれていた。しかし、私はいつもこの年末の賞レースが嫌いだった。そもそもオンナ編とオトコ編の基準が謎だし、どの漫画がすごいかくらい、読んだやつが自分で決めてくれよ。
「いや、もうコンテスト系はいいんで、とにかく売れたいんですよ私……」
蛇川さんは和風アクションファンタジー漫画を描いて、大ヒットを飛ばしている中堅漫画家だ。青年漫画のWEB媒体で連載されていて、ちょっとエッチで恋愛要素のある展開が女性に大人気らしい。蛇川さんの漫画は「この漫画がスゴい!」には取り上げられないが、実際のところ私の何十倍も売れている。去年の一月に単行本が出て以来、今のところ新作の連載がない私は、この二年半、蛇川さんのリモートアシスタントをしていた。
「私はツグミちゃんの漫画、めっちゃ好きだけどな。天才の漫画なんだよな~」
蛇川さんはいつも私を褒めてくれる。
「いや、でも、アンチもめっちゃいますから」
「アンチって本当に嫌だよね」
蛇川さんが低い声を出す。
「私アンチばっかり集めたリストXで作って毎日眺めてるわ」
私はハハハと笑う。
「わかります。それ私もやってます」
Xにいつもの漫画用のアカウントとは別に、誰もフォローしていない鍵アカを作って、そのアカウントで「アンチくん」という非公開リストを作っている。定期的にエゴサーチをして、自分の漫画に否定的な意見をしているアカウントをそこにリスト化する。新作が出るたびにそれを繰り返し、今、私の「アンチくん」リストは十五人になっていた。
「私、アンチのリスト眺めて、アンチがやっすいカップ麺とかを一人で暗い部屋で食べてる写真上げてると超嬉しいわ。汚いな、って思うけど。家のゴキブリ集めて飼ってる感覚に近いよね」
蛇川さんが淡々と言う。
「どうしてああいう人たちって、一人でご飯食べてる侘しい様子を写真に撮ってネットにあげちゃうんでしょうね?」
蛇川さんの意見には肯定も否定もしないことにした。噓をつくのは苦手なのだ。噓をつかない範囲で、事実と五ミリくらいズレた返答をするのが年々上手くなるなと感じる。
「なんか誰かに構ってほしいんじゃない? 漫画のアンチコメントとかも、あれ、本当はあの人たち自分に構ってほしいんだよね。人の漫画をどうこうしたいとかじゃなくて。いい迷惑だよ。私の漫画は絶対面白いのに」
蛇川さんのその自信も、よくわからなかった。私の場合、誰よりも自分の漫画を面白くないと思っているのは、私に他ならなかったから。
元々は王道の少年漫画が好きで、漫画家を志したのだ。でも、人生最初の少年誌での連載は大爆死して一年足らずで終わり、あっという間に漫画の仕事は無くなってしまった。ヤケクソになってインターネットに漫画を投稿するうちに、いいねが付きやすい漫画を描くようになり、気がついたら胸糞ヒューマンドラマばかり描くサブカル漫画家になってしまった。私の描く漫画なんか私は大嫌いなのだ。
「女さんのお気持ち漫画」
「つまんねー」
「またツグミの漫画かよ」
そういったアンチのコメントを見るたびに、私は「そうだそうだ、完全にその通りだ」と思っていた。
前の担当者はなぜかひたすらに、自分の話をしてくる人だった。「担当編集は漫画家の前ではパンツを脱げと言われているんですよ」が口癖の男だった。いやいや、勝手にパンツ脱がないでくださいよ、と私は思っていた。担当は「最近こんな面白いことがあって~」から始まる私生活の愚痴を五時間も六時間も延々と喋り続け、どうしたらいいかわからなかった私はその話を聞き続けた。漫画については何の会話もなかった。
その時のことは思い出したくもない。出しても出しても何がダメかわからないまま、「なんか面白くないんですよねぇ」で全ボツになるネーム。「この漫画がスゴい!」に選ばれた私の漫画はそんな死ぬ思いを潜り抜けた漫画が五本収録された短編集だった。辛すぎてこの一年、読み返すこともできなかった。あんな打合せは二度としたくない。
最近はWEB持ち込みをしても冷たくあしらわれることも多かった。商業作家になる前は何を描いても許されるはずだった白い紙は今や恐ろしい問いを私に突きつける白い壁だった。
「それ、売れんのか?」
白い紙が私の前に立ちはだかって聞いてくる。
「それ、本当におもしれーのか? お前が描きたいだけのお落書きしても誰も読んではくれませんよ笑?」
以前は引くだけで気持ちよかった線は硬く、iPadの白いペンは文鎮かのように一向に動かなかった。怖い。恥ずかしい。とんだ無能女め。無力感が募る。最近はAIにお願いすれば、簡単に絵も出てくるようになった。イラストレーターとして仕事を受注できるほどの画力もない。私の絵はアンチ曰く「誰でも描けそうなデッサンのイカれた顔」らしい。今の私はただでさえこの世の誰も必要としていないお絵描きという職業の底辺だ。
アシスタントの仕事だけはかろうじて受けることができた。アシスタントは人に言われた絵を、人に言われた絵柄で描けばいいだけだから。背景やプロップを描く時はちゃんと、パースを指定された資料写真までもらえる。
「でもツグミちゃんに入ってもらって助かったよ。おかげでこうしてもうすぐ最終話を迎えられそうだから。終わったら打ち上げとか行こうね」
あ~、それは何よりです、と言いながら、私は焦っていた。漫画が最終回を迎えるということは、私はアシスタントとしての仕事を失うということだ。蛇川さんは次の連載の話を今日まで一言もしてくれていなかった。
「ツグミちゃんは最終回終わったら、どうする? 次のアシスタント先とかもう決まってるの?」
どうしよう。何も決まってはいなかった。蛇川さんに頼んで、他のアシスタント先を紹介してもらう? 最近はアシスタント不足らしいし、アシスタントだけで生計を立てているプロアシスタントもいると聞く。でも、そろそろ自分の漫画を集中してやった方がいいのではないだろうか。このままアシスタントばかりをずっと続けて、一生プロアシでいるつもり?
「蛇川さんはどうやったら自分の漫画が売れました?」
蛇川さんは静かになった。ミュートされているのかと思ったら、咳払いが聞こえたのでそういうわけではないようだ。黙って回答を考えているらしい。
「ツグミちゃん、なんかだいぶん追い詰められてるみたいだから、一回さ、ロジックで漫画作ってる編集部とかに行ってみたら?」
「ロジック?」
「私が今描いてるところは『売れる漫画を作るロジック』みたいなの教えてくれる編集部なんだよ」
私は思わず作業の手を止めて固まった。「売れる」かどうかって、天気みたいなものじゃないの? それは編集者や作家がコントロールしたりできるものなの? もしかして、その「ロジック」なるものは私が知らないだけで、蛇川さんみたいな売れてる作家は実は全員知っているものなんだろうか?
「あと、ほら、自分の個人的な悩みとかを漫画にしちゃうとアンチとかから叩かれた時にたち直れないじゃん? ロジックで漫画描くと作品と自分を切り離して売れるから、それもすごく良かったよ」
アンチのコメントに毎回新鮮に傷ついている身としては、作品と自分を切り離す、という発想は魅力的に映った。
「なんかね、ロジックで漫画を描くと、毎回『読者との約束を果たしてる』って感じになるんだよね。水戸黄門がさ、毎回最後に『この印籠が目に入らぬか!』ってやるじゃん。花火が打ち上がったらお客さんが『た~まや~』って言ってくれるでしょ? それとおんなじ。新しいことを何も考えなくていいからすごく楽だよ」
その話を聞いて、雑誌のデザイナーをしていた時のことを思い出していた。雑誌のデザインにはある程度、型がある。強調すべき文字、辿り着きたいイメージ、見せるべき正解がある。私は先輩のデザイナーのデザインをある程度引き継いでいれば良かった。漫画にもそのような模範解答があるのなら、ぜひ教えて欲しい。
「私の担当編集の人が、昔こっそり送ってくれた『ロジックで漫画を描く方法』っていう動画あるからリンク貼っとくね。編集者向けの内部資料らしいから、『ん?』ってところもあるけど、まあなんか雰囲気とかわかるかも」
蛇川さんのアシスタント業務が終わったあと、私は早速ディスコードに貼られていたリンクとパスワードから動画を見てみることにした。動画は「野分編集長_新人研修動画」というタイトルだった。
動画を開くと、いかにも社内研修用といった白いスライドが映し出された。
髪の毛をワックスでガチガチに固めた金縁メガネのおじさんが画面に映し出される。
「はい、今日はお忙しい中、お集まりいただいてありがとうございます。WEBパラベラム編集長の野分です。今日は新人編集者研修会ということで、みなさんに私の方からロジックで売れる漫画を制作していくノウハウの研修をさせていただきたいと思います」
野分さんと名乗ったおじさんは手慣れた様子でスライドをめくりながら解説をしてゆく。
「まずは作家にとっての編集者とは何かっていうのを説明します。編集者には作家さんにとって実は二つの機能があります。一つは作家さんの道標としての機能。もう一つは漫画を売るための営業としての機能です」
そうなんだ、と新鮮に思う。私に延々と自分の失恋話をしてきた前の担当は一体何の機能があったんだろう。薄々そうじゃないかとは思っていたが、もしかして無能だったんだろうか。
「この編集者の作家さんにとっての機能を意識した上で、私たちの編集部が最終的に目指しているのはこれです」
大きな文字がスライドに映し出される。
「持続可能な創作」
いらすとやの可愛い男性と犬の絵が「可能な」の下で手を繋いで踊っている。これは作家のほうが犬、ということだろうか。
「私たちは作家さんの才能をできる限り使い潰さないようにしたいと思っています。具体的にいうと、作家さんの精神的金銭的な負担をなるだけ減らそうという発想です。例えば一人でアシスタントを大量に抱えて、作家性の高い週刊連載をギリギリの状態で一本だけ回すと、一年でその漫画が打ち切られたりした場合に突然、生活が破綻するということが発生しますよね。それであればネームだけを担当して市場にマッチした月刊連載を三本同時に回したほうが作家さんとしては生活が安定します。そういうふうに作家さんの人生の道標になる必要があると思っています」
マジでそうだよ、と過去の連載で生活が実際に破綻した私は思った。デビュー作で背景アシスタントを雇った漫画が大コケした結果、私は漫画でお金を儲けるどころか親に借金をすることになったのだ。アシスタント費用も最近は高騰している。原稿料が全てアシスタント代に消えて印税が出るまで赤字になってしまっているというのは漫画家あるあるなのだ。
「能力を切り売りできる状態を目指して行ったほうが作家さんによっては寿命を延ばしてあげられるパターンがあります」
考えたことのない概念だった。
「なによりも作家さんを稼がせてあげることができます」
スライドには実際に作画までやっていたギャグ漫画家がサスペンス漫画の原作者になり大ヒット作を書いた例が映し出されていた。考えてみれば、漫画のペン入れというのは時間もかかるし、興味のないものもシーンにあればちゃんと描き込まないといけないし、めんどくさくて辛い。それを外注した方が売れるというなら一回くらい試してみる価値はあるように思われた。
そのあとも、野分さんのロジカルな漫画講義は三十分続いた。売れる漫画の型は十パターンくらいに分類できること、作家の描きたいことをこのパターン内に収めることができればヒットが約束されること、編集者は漫画家がその売れ線パターンの中を迷わずまっすぐ走れるように手綱を握る存在であることなどが解説された。そして私は自分と前の担当編集を振り返り、自分には誰も手綱を引いてくれる存在がなく、担当編集と二人で霧の深い森の中を彷徨うような無意味な打合せをしていたのだということを理解した。
私が呆然としていると、スライドに大きく「最後に」という文字が映し出された。
「まあロジックはさておき、ずっと本物の作家と話していると、大変濃度が濃い時間を過ごしますので、普通の人と話すのがもはや、かったるく感じられるようになる瞬間がきます。そうなったら、あなたも本物の編集者です」
動画の中の野分さんが誇らしげに壇上で語っている。本物の作家って何だろう。売れてる人のことかな。売れたら私にもその濃度がわかるのかな?
動画をひとしきり見たあと、私は完全に放心していた。世の中にこんなに漫画の「売れるための解答」を持っている人がいたなんて。なんで私は今までこういう、いい担当編集に出会えなかったんだ? 蛇川さんはどうしてこんな「内部資料」動画を持っているんだろう。ずるい。私も漫画が売れれば蛇川さんのように担当編集さんに内部資料を横流ししてもらえるくらい特別に愛してもらえるようになるんだろうか。
ピロン、とLINEの通知が来た。蛇川さんからだ。
「野分さんにツグミちゃんの話したら、今度ご飯でもどうですかって言ってたよ。来る?」
あの野分さんとかいう編集長、蛇川さんの担当なのか! 私はかじりつくようにLINEに「行きます!」と返信した。解答が欲しい。早く正解を教えてもらって本物の作家に私もなりたい。
神楽坂の指定されたお店には十八時五十分に着いた。まだ誰もいないようだった。お店は地下だったので、入口で他の人が来るのを待っていた。新緑の生臭い不快な香りがどこからともなく漂ってきて、気分が悪くなる。
目の前でタクシーが止まり、髪をガチガチにワックスで固めた男性が降りて舌打ちをしながら店の中に入って行った。メガネがボストン型だった。金色だ。野分さんだった。身長が高く、動画で見ていたよりだいぶ迫力があった。眉間には深いしわが刻まれていて、ものすごい速度で階段を降りて行った。
私はヒョコヒョコと後をつけて階段を降りた。野分さんは一番奥の席に座っていた。勝手に上座の正面に座って、スマホを親の仇でも映っているかのような形相で睨んでいる。人を殺してきたみたいな横顔をしていた。
「あ、ツグミさん?」
自分を見つめている私に気がつくと、さっきまでの仏頂面が嘘のように、野分さんは笑顔になった。すごい切り替えだ。
「男性かと思ってました。女性だったんですね。すみません作家より先に座ってて。どうぞどうぞ」
野分さんはまるで自分の店かのように、私に席を勧める。私は野分さんの正面に座った。
「先に飲んじゃおっか。どうせ時間通り来ないよ蛇川は」
慣れた手つきで、野分さんが注文パネルから酒を注文し始める。酒が来るまでの間、会話を繋ぐために蛇川さんの話をすることにした。
「今日はありがとうございます。私今、蛇川先生のところでアシスタントしてるんです。蛇川先生の担当さんがどんな人か、会ってみたくて」
「ああ蛇川から聞いてるよ。あいつ最近、ほとんど打合せいらないって言って一人で漫画描いてるもんなぁ。大したもんだよ」
野分さんが虚空を仰ぎ見る。大したもん、と言いつつ野分さんが蛇川さんのことを呼び捨てにしているのに気がついた。蛇川。私もこの人に担当してもらったら、呼び捨てにされるのだろうか。
会話が終わってしまった。なんとか、会話を続けようと話を振る。
「野分さんは、どんな漫画がお好きなんですか?」
「俺は面白い漫画が読みたいよ」
「野分さんの思う、面白い漫画ってなんですか?」
「売れる漫画だね」
ためらいのない返答だった。
「えっ? じゃあ、野分さんの中で、売れてなくて、面白い漫画は、ないっていう認識であってますか?」
「うん。ないよ。俺が面白いと思う漫画は必ず売れるから」
あまりの衝撃で口が塞がらなくなった。凄まじい自信だ。どこからこの自信が湧いてくるんだ?
「私の描いた漫画って、読んでくださっていますか……?」
恐る恐る野分さんに尋ねる。
「うん、読んできたよ。いいんじゃない?」
それは絶対よくなさそうな「いいんじゃない」だった。野分さんはうっすらバカにしたように目を細めた顔で私を見ていた。「無関心」という感じだった。私は野分さんにどうしてもよそゆきの仮面をとって欲しくて食い下がる。
「私の漫画って、まあご存じだと思いますけど、めちゃくちゃコアなファンの方はいらっしゃるんですが、正直あんまり売れてはないんですよ。それはつまり野分さん的には面白くないってことですよね?」
その時、頼んでいたお酒が来て私の前にビールが、野分さんの前にキウイサワーが置かれた。キウイサワーのくせに、赤かった。なにこれ?
「なんでキウイサワーなのに赤いんですかね?」
思わずきいてしまう。
「さぁ。一口飲んでみる?」
野分さんがキウイサワーを私の方に差し出してくる。お酒はグラスの縁までなみなみ注がれていて持ち上げるとこぼれそうだったので、グラスをテーブルに置いたまま、犬になった気分で一口もらった。グラスに口をつけたまま野分さんを見上げると、野分さんが目尻を下げ、口角を少しだけ上げた温和そうな笑顔でこっちを見下していた。
この人は、今、私にどれくらいダメ出ししても大丈夫か、測っている。漫画の打合せというのは、相手の心の中に泥のついた手を突っ込むみたいなところがかなりある。人によっては、そもそも編集者にアドバイスをされるという行為自体が嫌いな人がいる。ただ、全ての作家がそうかといえば、そうでもない。
私は、いい漫画を描くためだったら、おなかの中が泥だらけになってもかまわない。むしろ、何でも言ってほしい。面白くないのに「面白い」と嘘をついている人間の顔は見たらすぐわかる。そんなつまらない人間の目を見せられるのは限りなく退屈で苦痛だ。野分さんに、店に入ってきた時の、舌打ちする殺し屋の目に戻って欲しかった。その目で思ったことをそのまま言ってほしかった。
「私、次の連載こそちゃんと売れたい、と思ってるんです。なのでどう思われたか、ストレートな感想を教えてほしいんです」
野分さんの口角が上がったまま、目の光がなくなった。野分さんが私が口をつけた後のキウイサワーを飲む。
「じゃあ、遠慮なく、正直なこと言っていい?」
野分さんの声が低くなり、私は大きく頷いた。
「今からめちゃくちゃ傷つけること言うよ? いい?」
私は前のめりでコクコクと頷いた。早く何か言ってほしかった。野分さんはニッコリ笑った。笑うと白くて大きな歯が見えた。
「こういう漫画を描いてるってことは、この人はまだプロになりきれてないのかな? 『俺の人生漫画でいくぞ』っていう覚悟が、ないのかな? って思っちゃった」
優しくゆっくりして落ち着いた口調ににこやかな表情と完全に相反する残酷な内容に思わず口があんぐり開いた。暴言すぎる。漫画で生計を立てている初対面の人間に対して言っていい言葉じゃない。
「傷つけちゃったら、ごめんね」
あ、いえいえ、全然、これが聞きたくて来たんです、と私はギリギリの声で絞り出した。予想以上に鋭角な指摘が飛んできて動悸がした。
「じゃあ、あの、どうしたら……」
「君はまだいい編集に出会ってないんじゃない? いい編集者に会えると漫画ってガラッと変わるからね」
その、いい編集者っていうのはどこにいるんだよ。そもそもいい編集者って何? 私は混乱して、なんとか細い声で野分さんにお願いをする。
「その、じゃあどこかでしっかり目に一回、野分さんにネーム、見ていただくことは可能でしょうか……?」
「いいよ。俺に聞いてくれればいつでも正解、教えるよ」
早くその、正解を、知りたかった。
「あ、じゃあ、あの。LINEとか、されていますか」
私が震える手でスマホを出すと、野分さんもスマホを出してQRコードを見せてくれた。野分さんの指が私のものよりもだいぶん太いことに、その時気がついた。
犬が土下座して「よろしくお願いします」と言っているスタンプを送っていると野分さんは「今ツグミさんは、どこの編集部でも連載してないんだよね?」と念を押してきた。私は小さく頷く。
「LINEでも常に連載ネームの持ち込みは受け付けてますから、いつでも送ってくださいね」
そう言って野分さんはイタズラっぽい目をして首をかしげた。なんだ、その首の角度! 私はイライラしてきた。このおじさんは若い時、さぞイケメンだったに違いない。少なくともこの首をかしげるポーズで暴言を許されてきた時期があったのだ。なんだこいつ!
野分さんの顔を覚えておこうと思って、よく見た。確かに、整った顔だし、日焼けもしているし、年齢の割には肌も清潔感があってきれいだ。でも、眉間には彫刻刀で彫り込んだみたいに深い溝があるし、笑ったら目尻のしわが頬まで繋がるくらいには歳だ。もうお前の顔は可愛くもカッコよくもない。おじさんだ。
私が野分さんにあっけにとられていると入口の方から「幹事なのに、遅れてすみません!」と言う声がして蛇川さんが小走りで店に入ってきた。




