ミステリの世界にはアンチ・ミステリなる言葉がある。その定義は難しいけれども、一般的には、ミステリでありながらミステリであることを否定するような構想が含まれ、なおかつ一種の過剰性を具えた作品というイメージが強い。そもそもは中井英夫が自作『虚無への供物』を形容するために発明した言葉であり、その後の作例としては竹本健治『匣の中の失楽』、奥泉光『葦と百合』などが知られている。
そのアンチ・ミステリを一字変えるとウンチ・ミステリになる。――いや、ふざけているわけではない。竹本健治の『ウロボロスの基礎論』のように、まさにウンチ・ミステリと称すべき作品が現に存在しているのだから。たぶん本邦最古の作例は山田風太郎が一九四八年に発表した短篇「うんこ殺人」だろうから、歴史だけならアンチ・ミステリより古くまで遡ることが可能である、とも言えるのだ。――やはりふざけているようにしか読めないか。
さて、京都大学推理小説研究会といえば、綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸ら錚々たる作家を輩出したことで知られているけれども、前記『ウロボロスの基礎論』には、その部室にあった本の上にうんこが置かれていた――というエピソードが出てくる。フィクションだと思った読者も多かった筈だが、実はこれ、れっきとした実際の事件なのだ。といっても、かなり古い出来事なので、前記の京大出身の作家たちも伝聞でしか知らないらしいけれども。
この世にも恐ろしい迷宮入り事件を作中に取り入れたのが『ウロボロスの基礎論』だが、もう1作、この事件から発想を得たミステリが存在する。「オールスイリ」掲載時から大きな反響を呼んだ、乾くるみの『嫉妬事件』だ(借用したのは事件の設定だけなので、舞台は架空の大学に変更されているし、時代背景もずらしてある)。
語り手は城林大学ミステリ研究会の部長で3年生の佐野重行。この会には、毎年クリスマス直前の土曜日に、部員のひとりが犯人当て小説を書いてきて朗読し、他の部員が推理を競い合うというイヴェントがある。この年は2年生の佐野翔子が出題者に立候補していたが、例年と異なるのは、3年生の赤江静流と交際している慶應大学の2年生・天童太郎もゲストとして参加する点だった。静流は研究会きっての美人だけに、彼氏の存在を知った男子部員たちは心穏やかではない。
ところが、このイヴェントはある事件のせいで台無しになってしまう。部室に入った部員たちは、室内に悪臭が漂っていることに気づく。それは本棚の方から漂ってきていた。果たして、本棚の最上段に並んだポケミスの上には、その名を口にするのも憚られる物体が……。