鳩山由紀夫首相が辞任した。その実質的な在職日数は、細川護熙氏の二百六十三日より一日少なく、ライヴァル心をむきだしにした安倍晋三氏の三百六十六日や福田康夫氏の三百六十五日、それに麻生太郎元首相の三百五十八日には百日ほど及ばなかった。新憲法下で五番目の短命首相にほかならない。当人も幸夫人も内心こんなはずではなかったと思っているはずだ。塩野さんは『日本人へ 国家と歴史篇』に収められたエッセイで、参院選挙に大敗した安倍晋三氏の首相続投やむなしという論を立てている。というのは、猫の目のように首相が代っていた小泉純一郎氏以前の時代に戻ることには、いまの日本はもはや耐えられない状態にあるからだというのだ(「安倍首相擁護論」)。
しかし、この期待を裏切って日本政治はその後、福田、麻生、鳩山と政権交代も交えて一年くらいで首相をすげかえてきた。塩野さんも、その間に、いい加減日本の政治の体たらくに愛想が二度も、三度も尽きたことだろう。年老いてもなお盛んなベルルスコーニ首相の国に住む彼女からすれば、日本の首相は大衆民主主義時代の有権者の心理が分かっていないという見立てになる。そもそも女はなぜ男に惚れるのか、を考えたことがあるのだろうか、と。ここでの彼女の指摘は、日本の国民や政治家にも学ぶべき点が多い。
そもそも有権者とは、「何をやったか」で支持するのではなく、「何かやってくれそう」という想いで支持を寄せる、と塩野さんは看破する。業績もさることながら、期待感で票を投じる人びとが多いのだ。業績で投票するのは、政治的センスをもった一部少数の有権者か、それとも歴史家なのか、でなければ歴史家的なセンスを兼ねそなえた新聞記者だけと考えたほうがよいというのである。 「歴史家」のはしくれとしては、汗顔のいたりでもあるが、彼女の指摘はまず正しいだろう。というのも、塩野さんは巧いことを述べている。政治とは、感性に訴えて獲得した票数つまり権力を、理性に基づいて行使していくものだからだ、と。彼女は、安倍氏がこの種の感性と理性を冷徹に使い分ける技の重要性に無関心のようだと指摘しているが、同じことは鳩山由紀夫氏にもあてはまるのではないか。
福田康夫元首相のローマ滞在中の逸話も面白い。国際会議にやってきた各国首脳が誰もイラン大統領と会わなかったという話である。とにかく、口を開けばイスラエル抹殺を叫ぶ物騒な大統領だから公式晩餐会にも呼ばれない。イタリアの大統領も首相も、下院議長も会ってくれない。この孤独な人物と福田氏はわざわざローマで一時間以上も話し合ったというのだ。
私などは、わが首相もなかなかやるではないかと見上げたくもなったが、塩野さんはどうもそうではないらしい。彼女の喜びそうな話なのに、と訝しく思ったが、次の瞬間に謎は氷解した。福田氏は真面目に、イランと日本の関係発展の障害として、核開発やミサイルの問題があると優等生的な話題に終始したからだ。まったく外務省の振り付けは面白くない。
イタリアもどの国の首脳も会わない“嫌われ者”に長時間割いたのだから、もっと相手を困らせても義理が悪くないというのが塩野さんの主張なのだ。関係が進まない障害は、あなたが常に口にする「地球上からイスラエルを抹殺する」という言葉だと言い切ればよかったのに、と次のように積極的な提案をしてくれるのだ。「わが日本はイスラエル寄りではまったくない。だが、現に存在する国と人の抹殺には賛成するわけにはいかない」と(「福田首相のローマの一日」)。これは正論であり、見事な提起というほかない。
現実の外交でも首脳同士であれば、このくらいのやりとりは当然あってもよい。それを許容範囲と考えるか否かは、職業外交官たちに尋ねるのでなく、日頃の教養と経験に支えられた自らの理性で判断すべきということなのだろう。それにしても、政権首班の交代期に合わせたように、政治と権力の本質を鋭く示唆する格好の書物が出たものだ。
日本人へ 国家と歴史篇
発売日:2011年05月20日
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