本書は「やらないで後悔するよりも、やって後悔するほうがずっとよい」という題辞から始まる。これはニッコロ・マキアヴェッリの言葉である。塩野氏は『わが友マキアヴェッリ』という著作で知られているように、マキアヴェッリに通暁した人である。私事ながら、数年前、塩野氏と歓談した際、拙著『マキアヴェッリの政治思想』(1970年刊)をかつて読まれたと聞いて甚だ恐縮したが、私の方も『わが友マキアヴェッリ』の文庫本の解説を書かせていただいた記憶がある。そういうこともあって、本書を手にした時、「おお、マキアヴェッリが登場したな」というのが私の第一印象であった。
しかし同時に、この題辞には塩野氏の日本人へのメッセージが要約されている。マキアヴェッリは危機の時代の思想家であると共に、諦めて運命に身を委ねることを潔しとしなかった思想家だが、本書を貫く1つのモチーフは断固とした積極性の擁護とそれへの呼びかけである。先程の題辞をもじれば、「後悔するのが怖いから何もしないでおこう」ではダメだということである。このうじうじした消極性と後ろ向きの自己弁護の傾向を爽快に切って捨てるところに本書の1つの特徴があることは間違いない。「若者たちへ」「内定がもらえないでいるあなたに」「『スミマセン』全廃のすすめ」「今こそ意地を見せるとき」など、手に取ってみれば直ぐに分かる。
しかし同時に理解しなければならないことは、本書は決して何か1つの支柱に寄りかかって、こうした人間的現実を批判し、切って捨てているわけではないことである。問題は常にわれわれの具体的な選択肢に関わるものであり、「〇〇イズム」といったもの(ご神体)を振り回すこととは違う。日本人は多神教だからこうした傾向とは無縁だとの思い込みに対して、塩野氏は「『がんばろう日本』はどこに行った?」の中で、「絶対安全」が神話であることが明らかになった中で、「絶対安全」を求め続けることによる「風評被害」の広がりを指して、「日本人の残酷さに直面して愕然としている」「何という卑劣な残酷さ」と断言している。彼女によれば絶対安全神話から卒業することによって風評被害の加害者であることからも卒業し、力を併せてがれきなど、難問を解決すべきだという。ここでも出口は具体的であり、抽象的な空回り型議論とはおよそ無縁である。この背後には「絶対」的なるものが、誤魔化しや残酷さと隣り合わせになっているという冷静な視線が見られる。この議論もマキアヴェッリを思い出させる。
「悪賢さのすすめ」という面白い一文がある。日本人は「馬鹿正直でお人よしで世間知らず」というのが塩野氏の見立てであるが、これでは外の世界と付き合うのは不得手であり、近隣諸国との関係もぎくしゃくしやすい。著者は相手の主張に恐縮して黙り込むのでなく、それに反発して愛国主義を爆発させることもなく、相手を気分よく納得させるには悪智恵の持ち主が必要だという。すなわち、国益のためには賢人ばかりでなく、悪賢人が必要である。この種の議論もマキアヴェッリ的であるが、「危機を好機に」という一文と併せて読むことを勧めたい。大人の政治教育の格好の一文である。
危機意識の政治的統合を
ところで政治は本書全体を流れる最も大きなテーマである。それは「政治とは、究極のインフラストラクチャーである」という塩野氏の年来の主張によって裏打ちされている。本書における政治の議論は日本からイタリア、更には民主政一般(アラブ世界を含む)に及んでいる。アラブ世界に関する記述は耳を傾けるべき点が多く含まれている。ところで政治の仕事は多くの力を結集して然るべき成果をあげることに尽きる以上、「決められない政治」の克服がその大前提になる。イタリアのモンティ政権についての記述はその変化を含め興味深いし、安倍政権は「再浮上のラスト・チャンス」を託された政権だと位置付けられている。本書の副題が「危機からの脱出篇」となっているように、塩野氏が期待するのは危機意識の政治的統合効果であり、経済力の強化・復活こそが全てだという。そして再浮上のためには10年程度の長期政権を視野に入れなければならないというのが著者の主張である。
大震災のがれき処理の遅れについては危機感の欠如(日常性への埋没)を批判しているが、あの大震災に際しても政治は危機にふさわしい手段を採ることを考えもしなかったし、万事を日常性の中で処理しようとした。マキアヴェッリ的な言い方をすれば、それは全てを尊重したように見えて却って当事者の苦しみを長引かせることになったのではないか。確かに安倍政権は十分な議席を与えられ、「決められない政治」から脱出する条件を与えられた。しかし、これ程日常性に深く埋没してきた政治の体質を経済再生への取り組みを契機に転換させるというシナリオを持っている政治家は皆無ではないか。
日本人へ 危機からの脱出篇
発売日:2014年01月17日
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