本日の講演〔広島大学での講演「西洋の道徳的危機に直面する今日の日本」〕のテーマである「西洋の道徳の問題」について私が考え始めたのは、ウクライナ戦争がきっかけでした。最大の問題は、西洋が自らの力を信じがたいほどに過大評価し、ロシアの力を過小評価していたことです。
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この戦争は「西洋の生産力不足」という現実を露呈させました。(略)では、この「生産力の衰退」は何に起因するのか。それは、米国、英国、フランスといった西洋の主要国におけるエンジニア養成の能力の欠如に由来しています。
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この戦争の分析を通じて、私はさらに新たな研究領域に導かれていきました。「米国における教育の崩壊」、すなわち「世代ごとの高等教育履修者の比率の低下(量的低下)」と「学生の学力の低下(質的低下)」の両面における「米国の教育水準の低下」という問題です。
この教育の崩壊の原因を探るなかで、私は1つの最終的な結論に至りました。「米国における宗教の衰退」こそ、すべての究極の原因だ、と。すなわち、西洋の中枢をなしてきた米国(と英国)の力強さの源は、プロテスタンティズムという宗教がもつ「教育の力」にあったのであり、逆に、このプロテスタンティズム〔読み書きを重視し、大衆の識字化に貢献〕の消滅が米国における「教育の崩壊」をもたらした、ということです。
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「宗教の歴史」、より厳密に言えば、「宗教の消滅の歴史」を描写する際に、私は次の3つの段階を区別しています。「宗教の活動的状態」「宗教のゾンビ状態」「宗教のゼロ状態」です(略)。
第1段階の「宗教の活動的状態」とは、人々が神を信仰している状態を意味します。
第2段階の「宗教のゾンビ状態」とは、神への信仰は失われたものの、宗教に由来する道徳的・社会的習慣が依然として残っている状態を意味します。この段階では、個人は依然として、道徳的であり続け、価値観の体系に枠づけられ、集団として行動する能力を維持しています。つまり、宗教は、「国民意識」や「階級意識」といった「イデオロギー」に代替され、当初の宗教集団は、「国民」や「階級」といった「イデオロギー集団」に置き換わります。
そして、私たちが今いるのが、第3段階の「宗教のゼロ状態」です。この段階では、宗教から受け継がれた古い価値観が消滅し、その結果、私たちは個人として真に孤立し、基本的な価値観を喪失し、もはや集団として行動を起こすことができません。集団としての枠組みがなくなることで、個人は強大化するのではなく、むしろ弱小化します。というのも、宗教、続いてイデオロギーによって教え込まれた「規範」こそ、「個人の人格」を支える力の源泉だったからです。
個人は、この「宗教のゼロ状態」を「自由」として享受するわけではありません。むしろ「人生の意味」というごく当たり前の問題、「自分はこの世界で何をしているのか?」「自分の存在の目的とは何か?」という難題にたった1人で直面することになります。
まさにこうした状況において、私が「ニヒリズム」と呼ぶものが現われます。すなわち、虚無への不安が、虚無の神格化、虚無の賛美へと変貌を遂げ、「事物の破壊」「人間の破壊」「現実の破壊」へと向かう衝動が生じるのです。
私に言わせれば、これが、今日の西洋の精神状態です。西洋諸国の「戦争への衝動」の根底には、「ニヒリズム」が存在しているのです。
これが、西洋が戦争を好むようになった道徳的背景です。
次に、西洋が引き起こし、西洋に責任があると私が考えるいくつかの戦争について具体的に言及していきます。しかし当の西洋人たちは、自らの責任をまったく理解できていないのです。
いまの状況の恐ろしさは、まさにこの点にあります。つまり、西洋人たちは、「自分たちはまだ正義の側にいるんだ」と自らに言い聞かせながら、戦争を仕掛け、自ら戦争を引き起こしているのです。
まずウクライナ戦争から始めましょう。
西洋においては、「ウクライナ戦争はロシアがウクライナに侵攻したから始まった」と理解されています。
ロシア軍がウクライナに侵入したのは事実です。その点は私も認めます。しかし、歴史的な現実を見れば、ウクライナを取り込んでロシアの国境にまで迫る「NATOの東方拡大」、ウクライナ人自身による「〔ウクライナの〕ドンバス地方のロシア系住民に対する武力攻撃」こそが、ウクライナ戦争の真の原因なのです。
「この戦争は基本的に防衛戦争である」というロシア人の理解は、完全に正しい認識です。私に言わせれば、「西洋、すなわち〔ウクライナに武器を提供して戦争を誘発した〕米国と欧州こそが侵略者である」というのが、客観的な事実です。しかし、私が何より驚かされるのは、侵略者側が「自分たちこそ攻撃された被害者であり、自分たちは防衛しているのだ」と思い込んでいることです。これほど明らかな現実を否認する西洋の精神状態には、「狂気」と呼ぶほかない要素を感じます。
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ここまでは、主に「米国のリスク」について論じてきましたが、日本の方々にとって、ニヒリズムに由来する「欧州のリスク」への警戒も重要です。
2003年のイラク戦争の頃、私は日本に来る度に、「米国人は危険だが、ヨーロッパ人は理性的だから、日本人は米国人よりヨーロッパ人と協力すべきだ」と語っていました。
しかし最近、欧州で目にするようになったのは、欧州特有のロシア恐怖症(ロシア嫌い)と欧州特有の好戦主義です。とくに顕著なのは、欧州北部、つまりプロテスタント圏で、具体的に国名を挙げれば、英国、北欧諸国、ドイツの大部分、そしてバルト3国のうちの2カ国です〔ラトビア、エストニアはプロテスタントが主流で、リトアニアのみカトリックが主流〕。
『西洋の敗北』の各国語版の刊行に合わせていくつかの国を訪れましたが、カトリックの国であるスペインやイタリアは、それほどロシア恐怖症でも好戦的でもないことを自分の目で確認しました。
この講演の結びとして、「宗教のゼロ状態」において、なぜプロテスタント圏の方がカトリック圏よりも危険なのかを説明し、その上で、プロテスタントとカトリックの違いのなかに日本を位置づけてみます。
プロテスタントは──ユダヤ教も同様ですが──、宗教として非常に厳格です。信者の前には神だけが存在し、(教会を介さない)神と信者の直接的な関係こそ重要で、(神と信者の間に存在する)現実世界は拒絶される──この世の美しさは否定され、偶像や視覚芸術も拒絶されるのです。それゆえに、この極めて超越的な宗教が消滅すると、そこには何も残りません。プロテスタントでは、もともと現世には何の魅力もないとされてきたために、「宗教のゼロ状態」が「独特の虚無状態」を生みだし、「究極のニヒリズム」が生まれる可能性が出てくるのです。
一方、カトリックは、宗教としてそれほど厳格ではなく、より寛容で人間味のある宗教で、「この世界は美しい」という考えを受け入れる宗教です。
カトリックの世界では、偶像は拒絶されず、芸術的な傑作に満ち溢れています。(略)
それでは結論として、日本の話に移りましょう。(略)
日本人はよく「自分たちは無宗教だ」と言いますし、また、無宗教であることにさほど不安を感じていないようです。
しかし、日本は常にそのような状態にあったわけではありません。非常に宗教的だった時期もあり、日本の仏教が暴力的で過激だった時期もありました。私がとくに思い浮かべるのは、農民一揆と結びついた「浄土真宗」の台頭です。この宗派の「簡潔さ」「単純さ」「純粋さ」は、プロテスタントを彷彿とさせます。
しかし日本は、大部分の時代において、複数の仏教宗派と基盤としての神道とともに、常に宗教的な多様性と複雑性を保ってきました。その結果、日本では宗教が「世界の美しさ」という感覚を消滅させることは決してなかったのだと私は考えています。
だからこそ日本は、「宗教のゼロ状態」になっても、プロテスタントの国よりもカトリックの国に近い精神状態を生みだすことになるでしょう。言い換えれば、ニヒリズムの脅威はそれほど深刻にはならない、ということです。
そうした私の仮説を確かめるために、広島の平和記念資料館に行く前に、娘と一緒に宮島を訪れました。あそこで感じた「世界の美しさ」には、本当に心を打たれました。
「1 広島講演 西洋の道徳的危機に直面する今日の日本」より





