石田衣良による大人気シリーズの最新刊『乙女道スカウト狩り 池袋ウエストゲートパーク22』。本作では、危険なドラッグ「ゾンビタバコ」、埼京線の集団痴漢、未成年を搾取する違法風俗店、そして地下アイドルを巡るスカウト狩りなど、現代の池袋に渦巻く新たな闇に、トラブルシューター・マコトが挑みます。池袋の“いま”を切り取った本作より「北口ゾンビタバコ」の冒頭をお届けします。
北口ゾンビタバコ
人間に心があるって、タイヘンだよな。
暑いだの、寒いだの、お腹が空いただの、給料日まで遠いなあだの、なぜヒトは生きるのかだの、いつでもなにかを感じたり考えたりしなくちゃならない。消費税を廃止しろとか、ありもしない外国人優遇策を撤廃しろとか、NHKをぶっ潰せとか、人の心は選挙のときなんかには実にさまざまな(無茶苦茶な)要求をしたりもする。
本来なら人間だって動物で、ぼんやり生きていれば、それで十分。けれど厄介ものの心のおかげで、おれたちはひと時も「心」を休める暇がない。ヒトにとって意識は呪いであり、栄光でもある。数々のノーベル賞級の偉業を見よ。アインシュタインのE=mc²とか、この夏の覇権アニメ(なんとBLホラーという新手!)とかね。まあ、おれやあんたのような凡人には、心が光り輝くときなんてめったにないので、心はおおかたはしんどくてめんどくさい人生のお荷物である。
この夏、池袋のガキのあいだで流行りかけたのは、その意識の重圧を刈りとってくれる魔法のクスリだ。電子タバコのふた吸いで、あれこれと苦痛に満ちた心を吹っ飛ばし、快楽の絶頂に連れていってくれるゾンビドラッグである。原産国の中国では太空油といい、地上を歩く卑しき人間が空高く飛翔できる宇宙の油と呼ばれている。
おまけにお洒落なシティボーイ向けに、フレイバーも選び放題。スイカ、キウイ、パッションフルーツ、レモン、パイナップル、ブルーベリー、その他いろいろ。あんたが健康志向なら、純粋にゾンビドラッグだけで、ニコチンやタールを抜いたヘルシーなカートリッジもある。合成麻酔薬はいいけど、ニコチンはダメなんて実に現代的だよな。
なぜ、ゾンビかだって?
あんたの目の前に腕にちいさな魚のタトゥーを入れたガキがいる。やせてて妙に色が白いやつだ。場所はウエストゲートパークのグローバルリングの下。ほんとは禁煙なのだが、やつは隠れて電子タバコをちょいと吸う。するとつぎの瞬間、がくがくと手足を激しく痙攣させて、ゾンビのように空ろな表情になる。そのままの恰好でフリーズすることも、その場に倒れることも、よろよろと植えこみまで移動して、盛大に吐くこともある。吐き気は空飛ぶクスリのちょっとした副作用だ。
どのリアクションをしても、薬入りの電子タバコを吸ったガキは意識のないゾンビのように見える。だからゾンビタバコ。なあ、おれは昔からいってるだろ。流行りのものにはいつだって、ロクなものはないと。そいつは違法な薬物だけでなく、本や映画や服や音楽だって同じなのだ。流行りのホラー小説とか、右派ポピュリズム政党とかね。

その夏、池袋のガキのあいだではゾンビタバコの話題でもちきりだった。といっても、よい子でなく半分グレイゾーンでなんとか凌いでいるいけないガキ専門の話だが。
おれは健全な果物屋の店番なので、そんなものには手を出したりしない。連日三十五℃を超える猛暑日でも、汗だくで店に立ち、よく冷えたスイカやパイナップルやメロンの串を売りまくるだけ。だいたいおれは生まれてからタバコを吸ったことがないし、電子タバコにも無縁なのだ。
そんなおれでも、一度だけ目のまえでガキが倒れるのを目撃したことがある。あれは十日ほど前のこと、ジュンク堂の池袋本店にいこうとビックリガードを歩いていると、四、五メートル先に髪の長い女子を見つけた。きれいな黒髪。時刻は午後六時過ぎ、家路を急ぐサラリーマンや学生で地下道はけっこう混みあっている。
その女は白いホットパンツにへそ出しのノースリーブのカットソーを着て、ぷるぷると尻を左右に振って歩いている。薄暗いガード下で、太ももの裏が真珠貝の内側みたいに光っていた。心のなかで両手をあわせ、きれいな脚を眺めていると、そいつはホットパンツのポケットから、なにかをとりだし口元に当てた。深呼吸を一度。長い髪をとりまくように、女の口から白い煙が流れた。煙は白いキャスケットのようにしばらく頭の上に載っていた。歩き電子タバコである。脚はきれいだが、マナーの悪いガキ。
それからは一瞬だった。その女子は急に立ちどまり、ガニ股になり、両肘をあやつり人形のようにあげて、ガタガタと震えだしたのだ。周囲の通行人がさっと身を引いた。女の痙攣は数秒続き、がくりとあごを落とすと、そのまま頭から地面に倒れていった。ごつんと鈍い骨の音が聞こえる。女は倒れたまま両手と両足をまだ震わせている。
何人か通行人が駆け寄って、若い女の様子を確かめていた。誰かがスマートフォンを出して、救急車を呼んでいる。サイレンの音が遠くから聞こえてきて、おれはその場を去った。忘れられないのは、仰向けに寝かされたその女子の顔で、その子は十四、五歳の中学生でも通りそうな童顔だったのだ。目は焦点を失い、濡れた黒い小石みたいだったけれど。
(……こいつが噂のゾンビタバコか)
本格的にヤバいやつだなと考えながら、おれはジュンク堂に移動していった。噂は春先から響いていた。そのドラッグは中国から台湾に渡り、沖縄の夜の街で流行り、つぎに東京の副都心に飛んできたと。
その後、三階の文芸書売り場をぶらつきながら、おれはちょっとした定説を思いだしていた。小説家が自分の本が売れるのを目撃するようなら、その本は相当なベストセラーになっているという出版業界のジンクスだ。
だとすると、さっきの目撃談も同じかもしれない。おれがたまたまゾンビタバコでゾンビ化する女子を一度ナマで見かけた。それなら池袋のガキのあいだでは、ゾンビタバコは、すでに相当なベストセラーになっているはずだ。アメリカにはフェンタニルがあり、台湾や日本にはゾンビタバコがある。なんだかなあ。
その夕方、おれはすこしばかりやさぐれた気分で、すごく高価になった海外ミステリーを二冊買い、宝もののように胸に抱えて駅の反対側の店に帰った。

連続五日か六日の猛暑日が続いた七月の終わり、おれはうちの果物屋で店仕舞いをしていた。池袋西一番街の入口という特等席にはあるけれど、ちいさな店なので、さくさくと動けば十五分ほどで閉店作業は完了する。外に出した商売ものを店のなかにしまい、店先のカラータイルを掃き掃除していると、スマートフォンが鳴った。
チノパンの尻ポケットから抜いて、相手を確かめる。面倒なダチなら無視だなと思っていたのだが、あいにく池袋の王様・安藤崇だった。出ない訳にはいかない。無視したりすると、下手をすればギロチンで首を刎ねられるからね。
「マコトか、仕事の依頼だ」
いつだってストレートで、無駄のない王様。
「ちょっと待て。今日は兵庫県の丹波市で四十一・二℃の国内史上最高気温だったんだぞ、おまえは天気の話とかしないのか」
タカシはせっかくのおれの情報と天気の話を完全に無視。
「明日の午前十一時、ホテルメトロポリタンのラウンジ『すずかけ』にいってくれ。うちのクライアントがおまえを待っている」
むちゃなことをいうキングだった。
「明日の午前中か、ちょっとマネージャーに確かめるから、待ってくれ」
タカシは王らしく、庶民のいうことに耳など貸さなかった。
「おまえがヒマなのはわかっている。さっきおふくろさんに確認したからな」
将を射んとするならまず馬からか。手際のいいやつ。
「それに今度の件は、マコトに絶対請けてもらわなくちゃいけない重要案件だ」
おや、いつもの絶対零度に近い声が、わずかに熱をもっている。
「重要案件って、なんだよ?」
「ゾンビタバコだ」
おれは人どおりの引いた夜の西一番街で、ほうきをもったままフリーズした。
「……そいつは確かに重要案件だな」
ビックリガードでいきなりマイケル・ジャクソンの「スリラー」みたいに震えだした童顔のガキを思いだした。
「ああ、このままあんなドラッグを池袋で流行らせる訳にはいかない」
キングは本気だ。おれもやる気をみせなければならないだろう。この街のガキがゾンビになるのを見るのは嫌だからな。
「わかった。いくよ。相手はどんなやつだ?」
タカシが低く意地わるそうに笑った。
「ふふ、それはいってのお楽しみだ。じゃあ、頼んだぞ。それから明日の夜は空けとけ。じゃあな」
ちょっと待てといおうとしたら、通話をガチャ切りされた。ふざけた王様。なぜ西口ロータリーにはフランス革命中のコンコルド広場のようにギロチン台がないのだろうか。

おれのクライアントは、だいたい街のコーヒーショップかファミレスしか使わない庶民ばかり。歩いて三分の距離でも、ホテルのラウンジなど、おれだってめったに足を運ばない。おれは麻のサマージャケットなどもっていないので、洗濯したての新しめの白Tとジーンズで、近所の高級ホテルに向かった。
ラウンジ「すずかけ」はロビーを見おろす中二階にあった。朝八時には三十℃を超えたウエストゲートパークを横切り、裏口からホテルに入った。自動ドアを抜けると、よく冷えた空気が壁のように身体に衝突する。生き返るよな。
ロビー脇の階段をあがり、ラウンジのエントランスに向かうと、ウエイトレスより先におれに手を振ってくる少女がいた。髪はショートの黒。なんとなく素朴な感じのする顔立ちだった。驚いたのはこのホテルから二百メートルばかり離れたガード下でゾンビになったガキと、ほとんど同じファッションだったこと。白いヘソ出しのカットソーに、黒のホットパンツ。むきだしの太ももがまぶしい。
「真島誠さんですね。お話は安藤さんから、うかがっています」
それからニッとちいさな前歯を覗かせて笑った。
「安藤さんが送ってくれた写真より、実物のほうがイケメンですね」
足元がぐらつくようなクリーンヒットだが、どこか日本語のイントネーションに癖があった。それにひどく高いアニメ声。おれの表情に気づいたのか、少女がいった。
「わたしは林永永。台湾の台北からきました」
どうりで日本語がすれていない感じがしたわけだ。
「日本語、上手なんだな。学校で勉強したの?」
ヨンヨンはにこりと笑っていった。
「違いますよー。全部テレビとユーチューブで、アニメを観て学んだんです」
最近、こういう外国人がけっこう多いよな。おれは単純にすごいと思う。おれだって「スポンジ・ボブ」とか「サウスパーク」は観てたけど、ぜんぜん英語がしゃべれるようにはならなかったもんな。ついでに聞いてみる。
「一番好きなアニメはなに?」
台北からきた少女はおおきく笑った。
「三十作くらいなら、すぐにあげられるけどー、一番は『NARUTO』かな」
「へえ、おれも好きだよ。あのなかのキャラなら、誰が好き?」
迷うことなく、ヨンヨンはいった。
「うちはサスケ!」
池袋でキング・タカシが一番人気なのと同じだった。女たちは強くてクールなイケメンに弱いのだ。

おれたちはロビーとフロントを見おろす手すりの脇の席に、対面で座った。クリーム色の大理石のロビーは、観光客の団体と大型のトロリーバッグで埋まっている。夏のビーチみたいな混雑ぶり。
おれの前にはアイスコーヒー、ヨンヨンには透明なマンゴースカッシュ。おれはこのビーバーみたいな少女と、タカシの言葉がまったくつながらなかった。この子のどこからゾンビタバコが出てくるというのだろう。
「この街で、誰か人捜しでもしてるのかな」
アニメならヨンヨンの顔がさっと斜線で埋まるような感じだった。くりっとした目を伏せて少女はいう。
「捜している人はいましたけど、もう見つかって、家に帰っています」
意味がわからない。
「へえ、よかったじゃないか」
ヨンヨンは肩でおおきくひと呼吸した。
「ほんとによかったんでしょうか。マーマは毎日泣いています」
お母さんのところだけ、本格的な中国語の発音だった。ゲリラ豪雨の黒雲が、ラウンジのテーブルに張りだしてくる。なんだかヤバそうな雰囲気。
「その人は、ヨンヨンのどういう人?」
少女は伏せていた顔をあげた。うっすらとピンクに染まる瞳。
「林銘傑は、わたしの兄です。六月二十七日、池袋大橋の側道に停めたクルマのなかで、遺体で発見されました」






