『冥土めぐり』で2012年上半期の芥川賞を受賞した鹿島田真希は、これまで手法を自在に変化させつつ、「主婦の憂鬱」というモチーフを繰り返し描いてきた。芥川賞受賞作をはじめ、『六〇〇〇度の愛』や『女の庭』がそれにあたり、本書の表題作もいわばこの系譜につらなる。彼女たちの憂鬱の種はなにか。ひとつは、夫婦=2人となったがために胸に巣食う「孤独」の感触であり、あるいは、ゆえなく自分の内に切迫する「渇望感」である。「暮れていく愛」にも、ひと組のありふれた夫婦が登場する。職場で出会って結婚して10年、子どもはいない。女子社員たちからの評判もよくジェントルな振る舞いが身についた夫と、ファッションや旅行に無関心でおとなしい専業主婦の妻。表面上は穏やかな日常生活の陰で、妻は夫の浮気を疑ってやまない。
妻は考える。〈私はどこへも行きたくないし、なにも食べたくない。ただ、あの人と一緒にいて、あの人が私を愛していると確かめられればそれでいい。それ以外のことはなにもしたくない〉。いっぽう夫も、妻の不機嫌、日々を蝕みはじめる関係の緊張に気づいている。〈あなたが一番、と思われることを苦痛に感じる日が来るなんて、結婚した時には想像できなかった〉。
相手がなにを考えているかわからない、という情報の遮断によって、あまたの恋愛小説や心理劇は読者の感情移入を誘うものだが、本作では妻の語るパートと夫の語るパートが交互に置かれることで、読者は彼ら双方の心理を覗くことができる。しかしその作品の構造は、はっきりと像を結ばない「大きな何か」がひたひたと妻を飲み込んでゆく恐怖感を、すこしも減じさせることはない。夫が本当に浮気をしているかどうかは、もはや問題の本質とならない。妻の「敵」はいるかどうかも不明な夫の恋人ではなく、もっと根源的な自身の実存と関わるものなのだ。
献身という自らの美徳にがんじがらめになってゆく妻に対し、夫はなすすべもない。妻は夫を他者であるがゆえに愛せたのに、やがて他者から自分も自分が愛するように愛されたいと見返りを求めるジレンマにおちいる。これはまさに「個」ではなく「2人」という単位に身を置くものだけが知る痛みである。
そうして夫婦という関係の囚われの身となった2人は、互いに遠い過去の記憶をよみがえらせる。夫は、精神修行よろしくいじめられる自分に恍惚としていたクラスの読書好きの女子学生のことを、そして自分のペニスを白いハンカチでつかんできた近隣の美少女のことを。妻は、健全さを押しつけられた高校時代を、そして、精子は流れ星、卵子は太陽みたいと言った親戚のお姉ちゃんのことを――。
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