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無頼が許された居場所

無頼が許された居場所

文:矢野 誠一 (演藝評論家・エッセイスト)

『昭和の藝人 千夜一夜』 (矢野誠一 著)


ジャンル : #ノンフィクション

 評伝や人物誌、交遊録、はたまた追悼文などを書いたり、書かされたりすることが少なくないのだが、この種の文章にゴシップは欠かせない。そのひとの送った人生を俯瞰(ふかん)して見たとき、積み重ねられたなまじの事実よりも、たとえ少しく疑わしいところがあったとしても、伝えられるゴシップのほうが、はるかにその人物像の本質に迫っている例はいくらもある。

 有名無名を問わず、人間誰しもときとして思いもかけない振舞に及ぶもので、それがまたゴシップのいい材料になるのだが、とりわけ藝人のゴシップに、面白おかしく、そして哀しいものが多いのは、彼ら藝人の生活基盤が、堅気(かたぎ)とよばれる一般の人びとのそれとは、いささかちがうところにあるからだろう。

  つまり、健全な一般的市民社会にあって要求される生活倫理や道徳律から逸脱したところに、独自の閉鎖社会を構成することで、堅気の人とはちょっぴりちがった生き方をするのが藝人には許されていたし、特権でもあったのだ。ちょっぴりちがった生き方が、いきおい奔放不羈(ほんぽうふき)で無頼なものと化していくのも、当然のなりゆきなので、そうしたことの許される居場所を持つことを、おのれの藝のよりどころとしていたのである。いきおい、ふつうの人が「あいつらは藝人だから、なにを言ってもしようがない」と大方の不義理を許容してしまうことを、独鈷(とっこ)にとると言おうか、あるいはそれに甘えると言おうか、とにかく彼ら固有の応対に免じてもらうことで、夏目漱石流にいう「活溌々地に躍動」してみせたのだ。

 ところで、いつの頃からか私は文章に元号表記を避けて、西洋暦を用いるようになっている。べつに、「唯一回の、自分一個の人生の時間を、世襲の天皇などという長唄の家元のようなものによって仕切られたりしたのではたまったものではない」という、堀田善衛さんのように、受け取り方によっては長唄の家元が怒り出しそうな、確固たる信念があってのことではない。グレゴリオ暦による年号のほうが、歴史的な時系列がより単純で明確になるからだ。

 一九九九年に『三遊亭圓朝の明治』を、文春新書に書き下ろした際、文中の年号表記に明治に限って元号を使用したのは、作品のテーマに鑑(かんが)みてのものだった。括弧内にグレゴリオ暦年号を記したことでべつに異和感はなかったが、三遊亭圓朝に限らず、藝人にとって明治というのが、きわめて特徴的な時代だったことをあらためて確認できたのが、思いがけない収穫だった。つまり、若さと、稚気と、衒気(げんき)が、これほど物を言った時代は明治以外になく、この時代に名をなした多くの藝人は、ほんらいの藝よりもむしろそれぞれ固有のはったりを共通の武器として、激動の時代をかけ抜けたのである。

 十二年ぶりの文春新書『昭和の藝人 千夜一夜』を書くにあたって、とくに元号にこだわることはしなかったが、昭和という年代は、藝人が藝人らしく生きることで、その輝きを発揮することに終焉を告げた、もはや往時と言うにふさわしい時代なのを痛感させられたのだ。

昭和の藝人 千夜一夜
矢野 誠一・著

定価:998円(税込) 発売日:2011年05月20日

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