舞台は、柳原(やなはら)藩という架空の藩と、その江戸屋敷。柳原藩は、日本海に面した東北地方にあるようで、江戸との手紙のやりとりが20日以上もかかる。柳原藩から出された手紙が江戸に到着するまでのドラマが、一気に語り下ろされる。
時は、寛政二年(1790)。前作よりも2年だけ時間が経過しているが、武士という存在が社会の矛盾を体現しているのは変わらない。ある者は、本草学を武器として興産(殖産興業)に邁進して貧困という強敵に立ち向かい、ある者は、武士の最後の砦である剣にすがる(あるいは逃避する)。
鮭が川を遡上して産卵できるようにする「種川(たねかわ)」という仕組みや、経世済民を説く荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学問など、経済的なハードとソフトへの関心は、青山らしい着眼である。経済は、「よりよく生きる」ための手段である。その一方で、死に狂う心を母胎とする剣は「よりよく死ぬ」道を求める。よりよく生きたいと願う者を生き続けさせるには、何が必要なのか。よりよく死にたいと願う者を、この世に引き留めるすべはないものか。この問題に、青山は命がけでこだわる。
貧しさと直面する国元(くにもと)と、人間が何にでもなりうる可能性を指し示す江戸。文官の統治機構(役方=やくかた)と、武官の軍事機構(番方=ばんかた)。竹刀を用いる稽古で弟子を増やす道場と、木刀の形稽古(かたげいこ)にこだわる道場。理想を求める男と、その男の現実を守ろうとする女。古い価値観にしがみつく者と、新しい時代を切り開く者。この世での幸福を願う心と、この世を超えたもう1つの世界を求める心。言葉が象徴する理性的ロゴスと、沈黙が象徴する内面的なパトス。『かけおちる』では、調和しえないさまざまな要素が入り交じり、攪拌(かくはん)される。
この小説の鍵となるのは、「妻敵討(めがたきうち)」というモチーフである。妻に欠け落ち(駆け落ち)された武士は、妻と姦夫を成敗しなければ男としてのメンツが立たない。『かけおちる』では、欠け落ちと妻敵討ちが反復される。現在の欠け落ちによって、過去の欠け落ちの真実が明らかになる。それが現在を変え、未来を切り開く。人間の未来を創るのは、作者の太刀筋にも似た、切れ味鋭い文体であり創作技法である。
青山文平が構築した「新しい時代小説」は、ロマンでも、ノベルでもない。剣豪小説でも、経済小説でも、神秘小説でも、歴史哲学でも、文明批評でもない。現実に裏づけられない、お伽話や作り話や戯作(げさく)や絵空事ではない。かと言って、リアリズム一辺倒でもない。そういう新しい時代小説の可能性を、それにふさわしい文体で青山文平は実現してゆく。
地方藩の有能な役方である阿部重秀の周囲で、欠け落ちが3度も起きた。3度目は、重秀の娘の理津が、婿養子の長英を裏切り、重秀の愛弟子の森田啓吾と欠け落ちた。啓吾は、本草学を興産に活用する有為の人材である。その彼が、愛の力で、この世を超えたもう一つの世界の価値に目覚めた。60歳の目前まで、現実しか見えなかった重秀も、遅まきながら現実を支えているもう1つの「愛の世界」を知った。
これから、啓吾と理津はどう生きるのか。読了して『かけおちる』を閉じた読者も、「ざうざう」とさわだつ心の音を、どのように鎮(しず)めればよいのか。 読者は、『かけおちる』が投げかける重い宿題に、自力で解決策を発見せねばならない。そして、青山文平の第3作で、作者自身の成長を見届けたいと願うだろう。読者は作者と一緒に、新しい時代小説を作りうる。そういう時代小説を指し示した麒麟児が、青山文平なのだ。