文春写真館

竹鶴政孝の哲学「ウイスキーは神秘的なものなんだ」

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

竹鶴政孝の哲学「ウイスキーは神秘的なものなんだ」

 日本のウイスキーの父、マッサンこと竹鶴政孝は、明治二十七年(一八九四年)、広島県生まれ。酒造業を営んでいた父敬次郎は、日本酒の品質改良につとめ、吟醸づくりの技術を高めた。

 政孝も大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)で醸造学を学び、卒業を待たずに大阪市内の摂津酒造に就職、洋酒の製造部門に配属された。純国産のウイスキー造りを望んだ社長の意向で、大正七年(一九一八年)、スコットランドのグラスゴー大学に留学、蒸留所でウイスキー造りの修業を重ねた。そして現地滞在中、ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と知り合い、リタの家族に反対されながらも大正九年、当時としては珍しい国際結婚をはたす。

「私にはリタが初めから印象的であった。リタの方は、ひとりで勉強している私に同情し、その同情がロマンスに進んだのですとあとから告白した」(「週刊文春」昭和四十三年=一九六八年七月二十九日号・大宅壮一対談より)

 帰国後、摂津酒造は純国産ウイスキーの生産に乗り出すが、第一次世界大戦後の不況で計画は頓挫する。退職した竹鶴は、中学の教師となるが、寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎がウイスキーの国内生産に乗り出し、竹鶴をスカウトする。大正十三年、大阪近郊の山崎に日本初の蒸留所が完成、竹鶴は工場長としてウイスキー造りの先頭に立った。そしてついに昭和四年、国産初のウイスキー「白札」が誕生する。

 昭和九年、竹鶴は寿屋を退社、北海道余市町でウイスキー造りを決意し、大日本果汁株式会社を設立する。地元特産のリンゴでジュースを作り、その売却益でウイスキーを製造する算段だったといわれる。昭和十五年、余市で製造した初めてのウイスキーを発売、「ニッカウヰスキー」と命名した。戦争中は配給用に製造し、終戦後の昭和二十七年、社名をニッカウヰスキーに変更した。

「わたしがウイスキーをつくったこの五十年間、世界の科学は大変な進歩してますワな。ところが、ウイスキーだけはちっとも変わっていないんですものな。ウイスキーに進歩ということばは使わない。神秘的なものなんだ」(同)

 昭和五十四年、逝去。写真は昭和四十三年撮影。

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