寝る前に軽く頭をリフレッシュしようか、と思って読みはじめると数行で物語の中に引き込まれ、あとはページをめくるのももどかしく一気に読み進む。魅力的な主人公の一挙一動にはらはらしつつ数時間。クライマックスで手に汗を握ったかと思えばラストで驚かされうならされて、気がつけば夜明けだった、という経験は、本好きの人なら一度ならずあるだろう。読書がもたらす幸福の一形態である。
だが読書の喜びは、そんな形ばかりをとるとはかぎらない。
この本を読んでも、はらはらどきどきはしない。だがかわりに静かな満足感がある。知識欲を満たされた、と感じるのだ。これも読書の至福の一形態だろう。
論じられているのは、時代小説とその小説が書かれた時代との関わりである。時代小説でさかんに取りあげられる歴史上の偉人――信長や秀吉や龍馬――が、いかに人物造形されたかを、小説の書かれた時代背景に即して解釈してゆくという手法をとっている。たとえば信長が近代的な合理主義者とされたのは、一九四四年に書かれた坂口安吾の「鉄砲」が嚆矢(こうし)だが、それは第二次大戦中に支配的だった精神論者に対する批判のためだった、というのである。秀吉などは時代によって立身出世の象徴であったり、修養のモデルであったりした、という。
こうした考えには異論もあるだろうが、実際に小説を書いている者としてはうなずける点が多い。戦国時代を書こうが江戸時代を書こうが、それはただの素材であって、テーマは書き手の暮らしの周辺から見つけてくるものだからだ。現に、組織の中で生きる息苦しさ、なんてのは会社勤めをすれば誰でも思いつくテーマだが、それを幕藩体制下の侍に投影したと思われる作品はいっぱいある。時代小説の発想のタネは、たいてい現代にあるのだ。書き手も読み手も現代人なのだから、当然と言えば当然である。だから「いまの時代はけしからんから、時代小説に仮託して批判してやろう」という露骨な意図をもっていなくても、書き手がその時代の風潮に不満を持っていたら、無意識のうちに批判的な気分が作中に織り込まれることはあるだろう。
などと他人事のように書いているが、本書の織田信長の章で私の『十楽の夢』という小説も一例として取りあげられているので、実は他人事ではないのである。そこで本書で『十楽の夢』がどのように解釈されているのか、まずは見ていってみよう。