本にはそれぞれ気配があり、いい気配を放っている本は間違いなくいい本である。だから私はインターネットで本を買うことができない(本の気配は表紙の紙質や手ざわり、色や活字の種類などから立ちのぼってくる)。
『昨日のように遠い日』は、めったにないほどいい気配を放っている本で、手にとったとき、私はほとんどびっくりした。たとえば焼きたてのパンや、上等な羽根のいっぱい詰まった羽根布団を前にしたときとおなじで、食べなくても、眠らなくてもわかることというのがあるのだ。見ただけで、匂いをかいだだけで、触れただけでわかること。
読んでみて、心底納得した。こんな物語が詰まっていたら、本はそりゃあいい気配を放ってしまうだろう。どの物語も、どこにもよりかかっていない。毅然として、清潔に、お行儀のいい子供みたいに孤独に収まっている。
胸のすくような幕あけのバリー・ユアグローは、短く、美しく、小さな切り傷みたいなかなしみを秘めている。「少女少年小説選」の冒頭に置かれた一編として、これ以上はないという完璧さだ。「ホルボーン亭」と「灯台」のアルトゥーロ・ヴィヴァンテは、よくも私はこの作家を、これまで知らずにいられたものだ(といっても巻末の邦訳書一覧にないので私が知れるはずもないのだが)、とくやしくなるすばらしさで、たとえば、子供のころにたくさん持っていたビー玉のなかでも特別きれいだった一粒、ひっそりと静かで、他のビー玉とはまるで違う光を帯びていた一粒、みたいな二編だったし、次に五作収められたダニイル・ハルムスときたら、と、順番に書こうとすればただただ絶賛することになりそうなのでやめる(でもこの人の、「おとぎ話」を私は傑作だと思う。ささやかでこざっぱりした傑作)。
ほとんどの物語が少年か少女を主人公としているのだけれど、少年や少女である時間の特別さというのは、それが大人たちの日々とおなじ時空間に存在するために、ある意味で閉じられ、そこにおもしろいひずみが生れる。この本のなかには、そのひずみが、たくさん、さまざまな形で存在している。いま確かにここにある、けれどいつか失(な)くなってしまうひずみ。どの作家も、それを全く感傷的なふうには扱っていない。小説にとって、ひずみは勿論おもしろいものなのだ。個々の人間にとっては、記憶が感傷をひきおこすかもしれないとしても。