「私は生来、物事にこだわらない性格だ」といえば、いかにも男前なさばさばした気性の持ち主に聞こえるのではなかろうか。けれども実は、ただ単に忘れっぽくて、熱しやすくて冷めやすく、イイ年をして定見というものの持ち合わせがなく……要するに私は至ってちゃらんぽらんな人間なのである。
そんな私が「いつか山本(新島)八重を書きたい」と思ったのは、2003年の夏。拙著『螢火(ほたるび)』を執筆するにあたり、会津へ取材に行ったときだった。9年もの間、1つの思いを抱き続けたなどと、忘れっぽくて飽き性の私には、いまだかつてないことだ。八重という女性は、それほど強く鋭く、私の胸に突き刺さったのだった。
『螢火』では、明治維新後に北海道に渡り「会津流人」と呼ばれながら、開拓に血の汗を流した人々をメインに描いた。が、今回は、幕末の動乱に始まり、会津の籠城戦をも余すところなく書かざるを得なかった。いうまでもなく、そうしなければ、八重と切り結ぶことができないからだ。
私は別に「会津びいき」でもなければ「薩長嫌い」でもない。会津藩が悲劇的な結末を迎えるまで新政府軍と戦い続けたのは、会津藩なりに節を全うするためだったのだと考えているし、新政府軍が徹底的に旧幕軍を叩きのめしたのは、日本が近代国家として生まれ変わるための、いわば産みの苦しみだったのだろうと思っている。つまり、どちらにも義はあったのだ。
ただし、八重を書くからには八重の心に、会津の魂に、寄り添わなければならない。そのつもりで資料をひもといていくにつれ、不器用とさえ思える会津人の生真面目さにたじたじとなってしまった。何しろ私は、会津人気質とは真逆のちゃらんぽらん人間なのである。しかも、調べれば調べるほど、八重という女性は、強い意志と覚悟を持って生きた会津人だったと痛感し、気後ればかりが募っていった。その上、落城後から京都へ上るまで空白の時期があったりもする。
けれど何故だか「どうしても八重を書きたい」との気持だけは、萎えることはなかった。レギュラーコメンテーターを務めているラジオ番組のリスナーさんが、私が八重を書こうとしていると話したのをお聞きになって、たくさんの資料を送ってくださったのも幸いだった。それらについては、私自身の希望とか意向を超えて、覚悟の女性・八重が「覚悟をもってお書きなさい」と背中を押してくれた気がしてならなかった。
「よーし。しっかり切り結んでみようじゃないの」
私は、知らず知らずのうちに拳を握りしめ、八重の写真を見つめていた。