2014.04.21 インタビューほか

文春文庫40周年記念特別コラム 宇江佐真理 心に残る時代小説

『海鳴り』上下(藤沢周平 著)

文春文庫40周年記念特別コラム 宇江佐真理 心に残る時代小説

 若い頃の私は、気に入った作品なら2度、3度と繰り返し読んだものだ。1度目よりも2度目のほうが細部に眼が届く。作者の意図もおぼろげながら理解できるような気がする。

 映画も同じである。昔の映画館は入れ換えがなかったので、上映の途中からでも入ることができた。途中からだと筋(すじ)も何もわからない。それでも根気よく見ている内に、何となく察しがついて来る。それから改めて最初から見る。そうすると霧が晴れるようにすべてがわかるのだ。他人から見たら、少しおかしな鑑賞の仕方であろう。小説と映画を一緒にするのは乱暴かも知れないが、理解を深めるためにも小説は2度読み(映画も)をお勧めする。

 とはいえ、それは時間があるからできることで、小説書きを生業(なりわい)にするようになってからは、2度読みする機会は少なくなった。長編などは読了するだけで精一杯という情けない情況である。

 文春文庫40周年記念に「心に残る時代小説」を推薦してほしいとのご依頼に、私は藤沢周平さんの『海鳴り』を選んだ。互いに家庭のある男女が運命の糸に導かれるように寄り添う物語で、最後は手に手を取って出奔(しゅっぽん)するのである。まっとうな不倫――などと、最初に読んだ時はばかな感想を持ったものだ。

 2人がそうしなければならない理由に納得が行ったゆえでもあった。しかし、念のため、もう一度読んでみると、それだけではない人情の機微(きび)があり、安易な感想を持ったことを恥じる気持ちにもなった。

 出だしは紙問屋の寄合が終わったところから始まる。この出だしが秀逸で、解説の丸元淑生さんもおっしゃっているように、一代で紙問屋の主にのぼった小野屋新兵衛の業界での立ち位置が明確に見えるのだ。その手際の鮮やかさには舌を巻く。新兵衛は真面目一方で商売に励んで来た訳ではなかった。商売に弾(はず)みがつくと自分の店の女中をしていた女と深間に嵌(はま)ったこともある。だが、そんな新兵衛を未だに妻の“おたき”は許そうとせず、息子の幸助の不行跡も新兵衛のせいだと詰(なじ)る。商売はうまく行っていても、 家庭には冷たい風が吹いていた。一方、同業の丸子屋のお内儀(かみ)“おこう”も子供を生めなかったことで姑(しゅうとめ)に冷たく扱われていた。この2人がふとしたきっかけで寄り添うことになるのだが、そのきっかけというのが他人には理解されない性質を含んでいた。酸(す)いも甘いも知っている新兵衛は、そのことを内密にしようとしたが、逆に同業の塙屋彦助という男に脅(おど)される羽目となる。

 そしてついに、江戸にはいられない事態に陥(おちい)るのだ。2人の未来は、決して明るいものとは言えないのに、新兵衛の心は不思議に満たされていた。初老を迎えた新兵衛にとって、“おこう”は初めて心を通わせることのできる女性だったからだ。この2人が誰も知らない土地で、ひっそりと余生を送ることを読者は願わずにはいられない。『海鳴り』とは、そういう小説である。

※新装版文庫の解説は後藤正治さんが担当しています。

海鳴り 上
藤沢周平・著

定価:590円+税 発売日:2013年07月10日

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海鳴り 下
藤沢周平・著

定価:560円+税 発売日:2013年07月10日

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