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世界の片隅の幸福を祈る物語たち

世界の片隅の幸福を祈る物語たち

文:東 直子 (歌人・作家)

『漁師の愛人』 (森絵都 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 篠崎誠監督の「あれから」という映画では、震災後の東京で、被災地の実家にいる恋人と連絡が取れないまま不安な日々を過ごす女性が描かれていた。やっとつながった電話には恋人の兄が出て、精神を病んで入院していることを告げられる重い展開だが、自問自答し、他者と対話し、自分なりの答を見つけようとする道筋に共通のものを感じた。

 あの日、あの時、なにを感じ、どう生きてきたか、一人一人に物語がある。現実と照らし合わせ、客観視することで新たに見えてくる地平もあるだろう。

 表題作の「漁師の愛人」は、直接大震災が関わっているわけではないが、東京から田舎に移り住んで漁師になる、というシチュエーションに、震災をきっかけに変化した意識に通じるものを感じる。

 妻も子もいる失業中の中年男と、そんな男に惚れた中年女が手と手を取りあって日本海へ――まさしくそれは絵に描いたような「先のない二人」だった。長尾のUターンにつきあって漁師町へ移り住む。にわか漁師の男と暮らす。そんな生活は長くつづかないと百人中百人が思うだろう。私も思った。魚よりもチーズの種類にくわしい長尾に漁師なんかできっこない。どうせすぐに音をあげる。透けて見える未来の儚(はかな)さ故に、しかし、私は揺らめいた。

 と、主人公の紗江は、一時的なものだと予想してその漁師町についてきたのだった。しかし、予想に反して長尾は漁師という仕事に邁進し、紗江は、自分を受け入れてくれない町民との間で苦しい日々を送ることになる。なぜ町民の目が冷たいかといえば、長尾に妻子がいるからである。妻とは別れると言う長尾の言葉を信じてつきあいはじめた紗江だが、妻は息子が結婚するまでは離婚しないと決めてしまった。よって、紗江は「漁師の愛人」として、白い眼を向けられながら暮らすことになるのである。

 自信をなくして東京に戻ることも考えるが、四十路を過ぎた独り身で生きていくことにも、自信が持てないのだった。そして何より「急に漁師になって漁にのめりこみ性欲もさかんになるような、あんな面白い男が一体どこに?」と、予測不可能なところがある長尾に惚れてしまっているのである。

 さらに、この生活の中に、長尾の妻の円香が、紗江に電話をかけてくる。とうとうドロドロとした三角関係が展開する、わけではない。長電話をするうちに、二人は友達のようになっていく。最初はおののいていた紗江も、他に話し相手がいないため、ダメ男長尾を見守る同志のようになっていくところが、とてもおもしろい。同じ人を好きになる人は、もともと似たところがあるに違いない、だから気が合うのではないか、と以前から思っていたことが明言化されたようで、うれしく読んでしまった。もちろんそれは、二人それぞれの確かな決意が貫かれたからこそのさわやかさだと思う。

 全編を読み直すうちに、愛情が多角的に表現されていることに気付く。男女の愛。男女の愛の周りに息づいている博愛。そしてすべての中心にある自分への愛。日常生活を照らし、しずかな愛を満たして、この世界の片隅の幸福をひっそりと祈っている、そんな物語たちなのである。

文春文庫
漁師の愛人
森絵都

定価:638円(税込)発売日:2016年07月08日

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