
――今月上梓される『漁師の愛人』は、『オール讀物』の「ラフスケッチ」シリーズから5篇を選んで収録されています。足掛け7年にわたる連載企画になりましたが、どういうきっかけで始められたのでしょう。
森 直木賞を受賞して、『オール』に何か新作をというお話をいただいたのですが、ちょうど短編をちゃんとやりたいと思っていた時期で、どうせ書くなら10年続けられないかな、と。
――10年。覚悟のいる長さですね。
森 10年続ければ、なにかしら短編をつかめるような気がしたんです。ある程度上達できるかなって。初めの1年は毎月の連載だったのですが、それぞれ独立した話ですし、大変なことになってしまって。この〆切だとほかのことが全然できない状態でした。それで2年目からは年に4回。去年あたりまでは基本そのペースで続けてきました。
――短編の上達を当時目標にされていたとすると、もともとの主戦場は長編、ということになるのでしょうか。
森 児童文学出身なので、デビューしてから短編を書く機会がなくて経験もあまりなかったんです。児童文学には短編を掲載する受け皿となる雑誌がないので、必然的に1冊の長さになるものを書いていくことになるんですね。
――このシリーズでは、人生の断面や場の変化をとらえる瞬発力が鮮やかな短編を数多く書いてこられましたが、新作は短編と中編で構成されていて、森さんの長編作家的な良さも味わえますね。プリンをモチーフにした3篇が本来の〈ラフスケッチ〉のラインでしょうか。読んでいると無性に食べたくなってしまうのですが、お好きなのですか。
森 どちらかというと甘い物は得意ではないんです。でも給食を振り返ってみると、献立の2大プレミアムってやはりプリンとクレープだったと思うんですよ。実は中学のとき、クラスでプリンの数が足りなくなるという事件が本当に起きて、放課後先生に全員が残されて犯人捜しをしたことがありました。問いただされているうちに男の子たちがいやになっちゃって、いいよ、おれたちがしたことにすればいいんだろ、っていうことになった。その時のことが心に残っていたんですね。子どもって、大人に引けを取らない感情や理屈があっても言葉がついていかなくて、口にした途端、みんな矮小化されてしまう。そのもどかしさも描きたかったんです。
――この3篇、怒りとユーモアが近しい関係にあるのを実感させてくれます。中編2篇はかなり趣が違いますが、もともとこの長さでと考えておられたのでしょうか。
森 2篇とも、中編を書こうというよりは、書いているうちに長くなってしまったかたちですね。結果的には特集にならなかったのですが、『オール』の特集のために震災を扱ったものを、という依頼をいただいて書いたのが「あの日以降」でした。まだ直後のことで躊躇もあったのですが、これほど大きな出来事があったのに定期的に書き継いでいるシリーズにその影がなにも反映されないのはどうなのだろう、という気持ちもあって、受け止めきれない部分も含めて描いてみようと決めて書きはじめた小説です。東京での試練は被災地に比べればごく小さなものでしたが、そこにはやはり普通ではない毎日がありました。それを小説の中に残したいという思いもありました。
――表題作の「漁師の愛人」ですが、帯の「ずるい男」、これは長尾のことでしょうね。
森 ずるくない男はいないと思いますよ(笑)。自分のずるさに気づいていないのもまたずるい。音楽プロデューサーの職を失った長尾は漁師になり、東京にいた頃よりも逞しくなって、ずるさも筋金入りになっていきます。海という絶対的存在の懐に飛びこんだら、陸の面倒なことなんてますます何も考えなくなっていくんじゃないかと。彼についてきた紗江にとってはしんどい毎日ですよね。
――紗江の仕事は、音を拾って楽譜に記していくものですが、ユニークな職業だと思いました。地方でもこつこつできる仕事ですし、なにより小説の中の音を意識させますね。
森 新しい小説を書くときはいつも、主人公にどんな仕事をさせようか考えるんですけど、採譜は紗江にしっくりきました。音楽の音を拾うだけではなくて、習い性として生活の中の音、波の音や雨やそういったものも繊細に拾っていくイメージが。
――ところで、なぜ漁師だったんでしょう。
森 なぜか無性に漁師を書きたくなったんです。私自身は、山派か海派かというと山派なんですけど、海にしても畑にしても、その日に収穫したものをその日に食べるシンプルな生活への憧れというのがありまして。夫が失業したとき、今だと思って漁師への転身を勧めてみたのですが、即答で断られました。未練を引きずっていたのかもしれません。
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