評論家の大宅壮一は、文藝春秋の池島信平、暮しの手帖の花森安治とならんで、朝日新聞の扇谷(おうぎや)正造を、「戦後マスコミの三羽烏」の一人にあげた。
扇谷正造は、大正二年(一九一三年)、宮城県生まれ。東京帝国大学文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。青森、仙台支局を経て社会部に配属される。昭和十三年(一九三八年)、戦争特派員として中国に渡る。昭和十六年、再度戦争特派員として、台湾、フィリピンに渡る。昭和十九年、応召。中国の漢口付近で終戦を迎える。
復員後の昭和二十二年、「週刊朝日」編集長に就任。辰野隆博士の連載対談「忘れ得ぬことども」を始めて評価を得るなど、雑誌作りに手ごたえを感じるようになる。
翌年六月、太宰治は、山崎富栄と心中する。このとき、扇谷は彼女の日記を独占入手、「週刊朝日」に発表する。このスクープで雑誌は完売を記録し、「週刊朝日」は以後飛躍的に部数を伸ばすこととなる。昭和二十六年から始まった徳川夢声の連載対談「問答有用」は、絶大な支持を得た。
昭和二十八年、第一回菊池寛賞を受賞。この頃の発行部数は約三十万部だったが、昭和三十三年の新年特別号は、百五十万部以上を刷ったといわれる。新潮社や文藝春秋など各出版社も、次々と週刊誌を創刊し、週刊誌時代の到来といわれた。
学芸部長や、論説委員を担当し、昭和四十三年、朝日新聞社を退社、フリーとなる。朝日新聞社を去るに当たって、扇谷は、ジャーナリストは現代史の目撃者たれとの言葉を残した。
「現代は、情報洪水の時代である。インフォーメーションは街にあふれ、むしろ情報過多時代ともいえよう。そして、ジャーナリストはともすれば、それに巻きこまれ、流されがちである。立ちどまって、何が、現代史を形成しつつあるか、そこのところを、しっかり、みつめてデータを選択して欲しいのである」(「文藝春秋」昭和四十三年五月号「ニュースとともに三十三年」より)
インターネット隆盛で当時とは比較にならない情報過多の今日、ジャーナリストは、それでも現代史の目撃者たりえているだろうか。
扇谷は平成四年(一九九二年)没。写真は昭和五十四年撮影。