2015.05.25 文春写真館

野球殿堂入りしてからも監督を引き受けた仰木彬

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

野球殿堂入りしてからも監督を引き受けた仰木彬

 変幻自在の采配は仰木マジックと呼ばれた。昭和十年(一九三五年)、福岡県生まれ。昭和二十八年、東筑高校で投手として、夏の甲子園に出場。翌年、西鉄ライオンズに入団するが、監督だった三原脩から二塁手へのコンバートを命じられる。一年目からレギュラーとして百一試合に出場、パ・リーグ優勝に貢献する。昭和三十年、一試合六安打のパ・リーグ記録を打ち立てる。昭和三十一年から宿敵巨人相手に日本シリーズ三連覇を成し遂げ、西鉄黄金時代を築いた。

 昭和四十二年引退。近鉄コーチなどをつとめ、昭和六十二年オフシーズンに、岡本伊三美の後任として、近鉄の監督に就任する。昭和六十三年十月十九日、川崎球場でロッテとのダブルヘッダーはシーズン最終戦だった。近鉄が連勝すれば、西武を逆転してパ・リーグ優勝するという条件で行われた二戦は、第一試合を近鉄が逆転勝利し最終戦に望みをつなぐが、第二試合は時間切れ引き分け。涙を飲んだ劇的な結末は、いまでも語り草となっている。翌年もオリックス、西武と激しい首位争いを繰り広げた結果、二位オリックス、三位西武までのゲーム差がわずか二厘という超接戦の末にペナントを手中にした。平成四年(一九九二年)、監督を辞し、野球解説者を務めた後、平成六年、オリックス監督に就任。イチローの才能を開花させるなど、名伯楽振りを発揮。平成七年、阪神淡路大震災にあいながらチームをパ・リーグ初優勝に導く。翌年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズで巨人を四勝一敗で下し、悲願の日本一を達成した。平成十三年、監督を勇退。平成十六年、野球殿堂入り。十二月に盛大な記念のパーティが催されたが、このときすでに肺がんを発症していた。

「『生前葬のつもりや。これでグラウンドで倒れれば本懐や。遺影の写真にでもするか』とサングラスを取ったその目は緑内障がすすんでいた」(「ありがとう仰木監督。」永谷脩=「ナンバー」644号より)

 しかし翌年、近鉄とオリックスの合併によって誕生したオリックス・バファローズの初代監督に就任。このとき七十歳。当時の最高齢での監督就任だった。体調が思わしくないなか采配を振るうが、四位でシーズン終了。監督の座を自ら降りた。十二月十五日、肺がんによる呼吸不全のため、生涯を閉じた。写真は平成十七年二月、宮古島でのキャンプ時に撮影。

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