これまでわたしは「小説の文章」に親しんできた。別の世界に誘い、異なる空間の扉を開き、新しい世界を見せてくれる文章に。多くの小説は、冒頭の文章から違う世界の衣を纏(まと)っているので、安心してその世界に遊ぶことができた。たとえば、「春琴、ほんとうの名は鵙屋(もずや)琴、大阪道修町(どしょうまち)の薬種商の生まれで歿年は明治十九年」と始まる『春琴抄』や、「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った」と始まる『金閣寺』には、物語の約束事に基づいたトーンがあって、その流れに乗っていくだけでよかった。
本書の冒頭の文章も、紛れもなく小説の衣を着ている。
「雨の季節は美しい。厚い雲の向こうに透き通った夏の光があって、そこから透明な光を宿した雨の滴が、広野の上に降り注ぐ」
ところが話が進むにつれて、小説の衣の下から違うものが見えてくる。
「ピンク・レディーがデビューをした年は、二年前に総理大臣を辞任した男が、受託収賄と外為法の違反容疑で逮捕された年だった」「『日本列島の改造』を叫んで総理大臣になった男は、中央の金を地方にばら撒く段取りをつけて、表舞台から姿を消した」というような、ドキュメンタリー風の文章――主観を一切排除し、歴史的事実を俯瞰(ふかん)的な視点から見た文章――が入り込んでくる。これはカポーティが『冷血』を描いたときに使った文体とも違う。少なくともカポーティの文章からは、対象に対して尋常ならざる共感を抱いていたことが窺(うかが)えた。
物語は一九八一年、冬になれば雪に閉じこめられる北国の小さな町に住む、ふたりの少女の小学生時代から始まる。小学三年生の田村雅美は、運動神経が鈍く同級生からは疎(うと)まれたり、仲間はずれにされたりしている。友だちに邪険にされ、怒りのあまり自分の傘と長靴を橋の上から投げ捨てたりもする、激しい気性の持ち主だ。小学一年生の大川ちひろは、親からバレエを習わせられ、母親の言うことを素直に聞く子で、母親の期待を一身に背負っている。とはいえ、ふたりとも教室の隅の方にいるのが似合うようなタイプだ。
ふたりには弟がいて、事業で失敗した父親がいる。しかし、彼女たちの人生がどこかで交ることはない。唯一の接点は、母親同士が中学時代に同級生であったことだが、親しい間柄ではなかった。ところが、大きな共通点がひとつある。それはふたりがともに、後に世間を騒がせる大きな事件を起こすことである。実際にあった事件になずらえているが、本書は謎解きを主体にしたミステリーでも、女性の一生をテーマにした作品でもない。
ここで描かれているのは時代そのものの姿だ。ふたりの少女が過ごした一九八〇年代から九〇年の、バブルが崩壊して国が目的を見失った時期について、あるいはふたりの両親が青春期を送った一九六〇年から七〇年の、高度成長期の日本の姿と一種の狂乱について、驚くほど克明に書かれている。さらには、中央から見放された地方都市の姿も丁寧に描かれている。まるで「時代」と「土地」とがこの物語の主役ででもあるかのように。彼女たちが事件を引き起こすきっかけとなったものが、一九八一年という「時代」と「土地」にあると言いたいかのように。
対談集『橋本治と内田樹』(筑摩書房)で橋本はこう述べている。
「他人のことを説明するということが、実は技術論であって、説明するものがない小説は、自分のことを語るだけになってしまうでしょう? だから客観性がないんですよ。(略)小説と言うのは、説明するディテールをいっぱいとったものの方が勝ちなんだなと。苦にならないような説明のテクニックを持ってしまった人が勝ちなんだと思ったんです」
本書の時代と土地の描写が、説明のテクニックを使って述べられていることは容易に理解できる。そのテクニックを使って少女の心のなかにあったもやもやとしたものに実体を与えようとしたのかもしれない。
小説の衣を纏いながらもドキュメンタリーにふさわしい視点で書かれた文章は、読者に感傷を強いたり、少女への共感を抱かせたりすることはない。少女の行動を裁く意図もなければ、社会的メッセージ性も 潔(いさぎよ)く排除されている。それこそがこの小説の大きな力であり、だからこそその「時代」と「土地」で生きた子どもたちをすくい取れ、タイトルとなった「橋」のモチーフが、読み終わった者の心に鮮烈に残るのである。
橋
発売日:2013年09月20日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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