そう思ったところで、七海はいつもの七海に戻ったが、三十三間堂で男たちの想い出に涙していたのは誰だったのだろう? 今しがた見ていた男たちの幻は砂浜に描いた絵のように、波に洗われ、消えかかっていた。どう考えても、自分の記憶にない男たちだったが、観音像を見ながら、胸に抱いた悲しみはこの体で感じていた。夢を通じて他人の記憶、それも死んだ白草千春と記憶を共有するなどということがあるのだろうか?
それ以来、招いたつもりはないのに、白草千春は三日にあげず、七海の夢枕に現れては、自分の過去を振り返るのだ。彼女の体を通り過ぎて行った男たちの思い出は古傷のように疼くのだろうが、七海には全く無関係な男たちだ。眠っているあいだに、見知らぬ男たちとの関係を強要されるみたいで、寝起きの気分は最悪だった。そんな赤の他人と交わるのも、他人の心の傷を背負い込まされるのも御免被りたかった。
今夜も白草千春が現れるのかと思うと、眠るのが憂鬱になった。もちろん、眠らなければ、彼女が現れる余地はないが、いつまでも起きていられるはずもない。寝不足で朦朧としてくると、意識の防御が緩み、千春の侵入を許すことになる。夢さえも見ないほど深い眠りに落ちればいいと、深酒をしたり、睡眠薬を飲んだりして、彼女が訪ねてくるのを拒もうともした。それでも、寝入り端や朝方、眠りが浅くなった瞬間に、彼女はするりと夢の中に紛れ込んでくるのである。 お陰ですっかり生活のリズムを狂わされてしまい、再び谷本ヘレンに相談に行かざるを得なくなった。千春の霊を成仏させられそうな人は彼女以外に思い当たらなかったから。
――ああ、やっぱり現れましたか。よかったです。
――何もいいことはありません。どうにかしてください。
――死者たちとの付き合いなしには、私たちの暮らしは成り立ちません。また、死者たちがこの世に現れる時は、生きている人の協力が必要です。
――すみません。いってることがよくわかりません。
――あなたは千春さんに選ばれたんですよ。落語とか歌舞伎の世界には襲名というのがあるでしょう。亡くなった師匠や名人の名前を弟子が名乗る。それと同じだと思えばいいですよ。
――二代目千春になれってことですか?
――名前を継ぐ時はその魂や芸を身につけなければなりません。
――どんな魂ですか? 何の芸ですか?
谷本ヘレンは七海の困惑顔を真正面から見据えて、「色好みの」と呟いた。
――私、そんなに男に飢えているように見えますか?
ヘレンが黙って指差す方向には鏡があった。自分の顔を見てみろという意味? 失礼千万な占い師だ。
――私に何をさせたいんでしょう?
――あなたは筆が立つでしょう。書くことが好きでしょう。
そう訊き返されて、七海はコトバに詰まった。学生の頃、漠然と小説を書いて暮らしてゆきたいと思っていたが、そのことを他人に打ち明けたことはなかった。今でもブログやメールに自分の心に芽生えた詩を書き綴る癖は抜けない。七海の中の文学少女はまだ死んでいなかった。
――書いて、供養してあげたら。
――書くって何を?
――白草千春の生涯。『好色一代女トゥデイ』とかいうタイトルで。
――身辺雑記しか書いたことないんですよ。他人の昔話なんて興味ないし。
――自分の未来を知りたいでしょ。だったら、他人の過去を研究しなさい。決心がついたら、またいらっしゃい。
谷本ヘレンが死者の肩を持つので、千春の霊はこれ幸いとばかりに七海の夢に居座るようになった。彼女が現れると、反射的に目覚める癖がつき、そのせいで睡眠障害になってしまった。仕事にも支障が出始め、周囲にも迷惑をかけることが増えた。心療内科にも行ったが、死者の霊に取り憑かれているなどとはいえなかった。結局、仕事のストレスが原因ということにされ、薬をたくさん処方された。指示通りに服薬していたら、本当に病気になってしまうところだった。
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